ライアン・クーグラー監督とは何者か──生い立ちから『罪人たち』成功までの軌跡、チャドウィック・ボーズマンの死去とインポスター症候群との闘い

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ライアン・クーグラー

『罪人たち』で歴史的成功を収めたライアン・クーグラー。その旅路は、自己否定との闘いでもあった。


『罪人たち』がアカデミー賞で史上最多ノミネートを記録し、映画監督ライアン・クーグラーの名は改めて“現在形”のものになった。オリジナル作品として異例の興行成績を重ねたことも含め、結果だけを並べれば、疑いようのない成功者の物語に見える。

だが、米『ザ・ハリウッド・リポーター』誌の特集記事(英語)によれば、クーグラー本人が語るのは勝利の実感よりも、長く続いた不安と違和感だ。デビュー以来ヒットを生み出し続けても、「僕はここにいる資格がない。この場所は僕のためのものじゃない」と感じていた時期があるという。評価されるほどに自分を疑い、喜びを受け取ることさえ難しくなる——彼のインポスター症候群は、クーグラーのキャリアの影の輪郭として繰り返し現れてきた。

その輪郭が決定的に変わったのが、『ブラックパンサー』チャドウィック・ボーズマンと過ごした時間、そしてボーズマンの喪失だった。そこからクーグラーは自分のルーツへと引き寄せられ、10年以上ぶりに“既存のIPではない映画”へ戻っていく。『罪人たち』は、その帰還の果てにある。

オークランドという原点──共同体の記憶が映画の背骨になるまで

ライアン・クーグラーの現在地を理解するには、まず彼が愛し続けた場所、オークランドへ戻る必要がある。黒人経営の書店マーカス・ブックス、グランド・レイク・シアター——そこは彼にとって最も印象的な映画体験の場所で、6歳の時に父親と『マルコムX』を観た場所でもあるという。

この街の記憶は、彼の家族史ともつながっている。北オークランドの出身だというクーグラーの家族。彼は港湾労働者のクレーンを指し示し、祖父と叔父がILWUで働いていた場所だと紹介したという。「僕は労働組合の話を聞いて育ったんだ」。共同体の労働、声、連帯——そうしたものが、クーグラーの中で“現実の重さ”として残っていった。

母親はコミュニティ・オーガナイザー父親は少年院の保護観察官だった。両親は彼を私立学校に通わせた。比較的恵まれた環境に身を置きながらも、街の別の現実を知っている。その二重の視点は、後のフィルモグラフィーに一貫して流れる。社会と個人の距離を測り、暴力や喪失を“出来事”としてではなく“生活の一部”として捉える眼差し——それは、華やかな成功の後から付け足された態度ではない。出発点からすでに、彼の背骨になっていた。

フットボールから映画へ──進路変更が必然になるまで

クーグラーの人生が映画へと大きく舵を切る前、彼は別の進路を歩いていた。セント・メリーズ大学にフットボールの奨学金で進学し、その後サクラメント州立大学へ。アスリートとして将来を模索する一方で、映画への愛情自体は中学校に入る前から育っていたという。ただし、それを「人生を捧げる対象」として意識する決定打は、まだ訪れていなかった。
転機になったのは、10代前半で出会い、後に妻となるジンジ・クーグラーの存在だ。彼女が贈った脚本執筆ソフト「ファイナル・ドラフト」が、ぼんやりとしていた思いを具体的な行為へと変えた。ジンジーは当時をこう振り返る。「フットボールが彼にとって終わりを迎えるかもしれない章のように感じ始めた時、私には彼が同じエネルギーを注ぎ込める場所を探しているのが見えた。それが映画制作だったんだ」。
やがてクーグラーはUSCの映画プログラムに合格する。彼は貪欲な野心を携えてその場に到着した。ジョン・シングルトンやスパイク・リーといった先達の系譜を意識しながら、若さゆえの切迫感を武器に、物語を語る側に飛び込む覚悟を固めていた。自身の世代や現実が、映画の中で正しく理解されていないという感覚も、その衝動を後押しした。
その姿勢を近くで見ていた一人が、サンダンス・インスティテュートの脚本家ラボを共同設立したミシェル・サッターだ。彼女は後に、『フルートベール駅で』の開発過程でクーグラーと関わることになる。彼女は当時のクーグラーについて「その飢えが必要なんだ——それなしでは映画は作られないよ」と語っている。

『フルートベール駅で』──成功と同時に始まった自己否定

オークランドを舞台にした『フルートベール駅で』は、2009年に警官の手によって命を落とした22歳の黒人青年オスカー・グラントの最期の1日を描いた作品だ。実際に起きた出来事を基にしながら、感情を煽ることなく、生活の延長線上で悲劇に至る過程を見つめるその視点は、若き監督のデビュー作としては異例の成熟を感じさせた。

プロジェクトへの注目は急速に高まった。フォレスト・ウィテカーがプロデューサーとして参加し、サンダンス・インスティテュートで脚本開発が進められ、オクタヴィア・スペンサーがオスカーの母親ワンダ役で加わった。撮影が始まったのは2012年7月。トレイヴォン・マーティン殺害事件から数カ月後という、アメリカ社会が張り詰めた空気の中だった。

映画はサンダンス映画祭で主要賞を獲得し、90万ドルの低予算ながら世界興収1700万ドル以上を記録する。批評的にも商業的にも、どの尺度で測っても成功作だった。だが、27歳のクーグラー自身は、その評価を自分の居場所として受け取ることができなかった。

僕にはあの映画を作る必要性があったけど、その後の状況が自分の居場所だとは確信できなかったんだ」。彼は当時をそう振り返る。「誰かが自分にいたずらをしているんじゃないかって思ったりする。これはすべて現実じゃないって思ったりするんだ。『僕はここにいる資格がない。この場所は僕のためのものじゃない』ってね」。

その感覚をさらに強めたのが、作品に背負わせた期待の大きさだった。『フルートベール駅で』が、世界を目覚めさせ、同じ悲劇を二度と起こさせない力を持つのではないか。そんな願いを、20代の映画作家がひとりで抱え込むには、あまりにも重かったようだ。

あの映画は、世界がどう機能しているかを完全には理解していない人間によって作られたんだ——率直に言ってね」。クーグラーは自己批評を躊躇しない。フットボールと学業に打ち込んできた自分は、オスカーが命を奪われるに至ったすべての要因を十分に研究していなかったという。「今はもっと知っている——けどそれで楽観的にはなれないよ」。

それでも彼は、この“ナイーブさ”を否定しない。「だからこそ、ナイーブな人々からの映画が必要なんだ」。芸術にできることの限界をまだ知らないこと、楽観主義を信じていたこと、その無知こそが不可欠だったのだと語る。「若さゆえの無知の居場所がある。それは不可欠な場所なんだ」。

学びとしての現場──俳優たちが変えた監督像

『フルートベール駅で』の現場は、クーグラーにとって映画作りの厳しさと同時に、決定的な学びの場でもあった。とりわけ彼の監督観を大きく変えたのが、オクタヴィア・スペンサーとの仕事だ。

物語の中でも最も痛切な場面のひとつ、ワンダが遺体安置所で息子オスカーを確認するシーン。撮影当日、スペンサーは共演者のマイケル・B・ジョーダンを事前に見ないよう配慮されていた。しかし、いざ撮影が始まる直前、彼女は恐怖に圧倒され、目を逸らしてしまう。「あまりにリアルで怖くなって、固まってしまったの」。その時、クーグラーは彼女にこう告げた。「彼を見てほしい。彼を見る必要があるんだ」。スペンサーはその言葉を受け入れ、恐怖と正面から向き合った。「恐怖に向き合わなければならないの」。彼女はこの経験を、それ以降の全ての仕事に持ち込んでいるという。

一方で、クーグラー自身も学ばされていた。別の場面で、彼はあるシーンを完成させるのに苦労していたという。「僕は彼女を監督しすぎようとしていたんだ」。スペンサーが、細かな指示なしで自分自身のためにテイクを演じる余地を求めたことで状況は一変する。「完璧だった。そのまま映画に入ったよ」。この経験は、単なる一作品の成功体験に留まらなかった。「撮影現場にいる時はいつもオクタヴィアのことを考えている」。その記憶は、『ブラックパンサー/ワカンダ・フォーエバー』でのアンジェラ・バセットの演技、さらには『罪人たち』における全てのパフォーマンスへと直結していると、クーグラーは語る。

俳優を“導く存在”から、“信じて委ねる存在”へ。『フルートベール駅で』の現場で得たこの感覚は、彼の作品から過度な説明や演出の痕跡を消し、代わりに、人物の感情が自然に立ち上がる空間を生み出していく。その変化は、のちにより大きなスタジオ作品を任される際、彼を支える見えない基盤となっていった。

『クリード』──規模の拡大と、失われなかった感覚

『フルートベール駅で』が劇場公開されてから、わずか2週間後。クーグラーは『クリード』の監督に正式に起用された。ロッキー・バルボア(『ロッキー』)という象徴的キャラクター、40年の歴史を持つフランチャイズ、主演として10年ぶりにシリーズへ戻るシルヴェスター・スタローン。そこには、インディペンデント映画とは比較にならない数の声と期待が集まっていた。

規模の拡大は、同時に“システムをナビゲートする力”を求められることでもある。しかし、共演者のテッサ・トンプソンは、その現場に違和感を覚えなかったという。「ライアンが(スタジオの)システムをナビゲートするのを見ていて、小規模なインディー映画監督がその空間に移る時に考えるような妥協をしているようには感じなかった」。彼女は続ける。「シームレスで、地元に根付いていて、優しく感じられたよ」。

『フルートベール駅で』では、クーグラーは自分が育った土地を描いていた。『クリード』は彼を、3000マイル離れたフィラデルフィアへと連れて行く。彼は街の隅々まで歩き、文化や空気感を学び、ニッチな地元のディテールを映画の中に織り込んだ。「僕には土地について間違いを犯すことが怖いんだ」。クーグラーはそう語る。「その土地出身の人が映画のチケットを買いに行くのを楽しみにして、座って『なんだよ、間違ってるじゃないか』って言うようなことは絶対にしたくない」。その慎重さは、自己否定から来る萎縮ではなく、観客への誠実さに近い。どの土地を舞台にするにせよ、その場所で生きる人々がどう感じるかを想像すること。それはオークランドで培われた感覚の延長線上にあった。

『クリード』は世界興収1億7360万ドルを記録し、批評的評価も高く、スタローンにとっては40年ぶりのアカデミー賞ノミネート作となった。だがクーグラーにとって、この成功は“通過点”に過ぎなかった。むしろ彼は、より大きな舞台に立つことで、自分が何を手放さずにいられるかを確認していた。共同体への視線、土地への敬意、現場で人を信じる姿勢——それらは、次に待ち受けるさらに巨大な挑戦へと、そのまま持ち込まれていく。

『ブラックパンサー』──世界を背負うということ

『クリード』の成功を経て、クーグラーのもとに届いた次のオファーは、『ブラックパンサー』だった。マーベル・スタジオ作品であると同時に、黒人ヒーロー映画として前例のない期待を背負う企画。彼に課されたのは、単に一本の映画を完成させることではなく、架空国家ワカンダを“信じられる世界”として立ち上げることだった。

クーグラーが最初に行ったのは、徹底したリサーチだった。サハラ以南のアフリカ各地を旅し、ケニアや南アフリカを訪れる。匂いを学び、食べ物を味わい、人々と時間を過ごす。想像の産物であるワカンダを、空虚な象徴ではなく、文化と歴史の延長線上に置くための作業だった。そのビジョンを形にしたのが、長年彼と仕事を共にしてきた職人たちだ。衣装デザイナーのルース・E・カーター、プロダクション・デザイナーのハンナ・ビーチラー。両者は『ブラックパンサー』でアカデミー賞を受賞し、のちに『罪人たち』でも再びノミネートされることになる。現場の雰囲気は、巨大スタジオ作品としては異例なほど家族的だったという。

『ブラックパンサー』は世界興収13億5000万ドルを記録し、アカデミー賞作品賞にもノミネートされた。だが、この成功は彼に安定をもたらすことはなかった。むしろ、彼が背負うものはさらに重くなっていく。続編の脚本を書き進める最中、世界は、そして彼自身の人生は、大きく変わろうとしていた。

チャドウィック・ボーズマンの死──喪失がもたらした転換

『ブラックパンサー』の続編は、成功が約束された企画のように見えていた。しかし、クーグラーが脚本を深く書き進めていた2020年8月、主演のチャドウィック・ボーズマンが結腸がんで亡くなる。彼の死は、シリーズの行方だけでなく、クーグラー自身の時間の流れをも断ち切った。「僕が生きてきたのと同じくらい長く、時にはもっと長く映画を作ってきた周囲の人たちは言うんだ。『こんな出来事は見たことがない』ってね」。プロジェクトは、根本から再構築される必要があった。ティチャラ国王/ブラックパンサーという象徴的な存在は、映画の冒頭で命を落とすことになる。「僕たちは心が砕けた状態から仕事をしなければならなかった。そうでなければ完成しなかっただろう」。

クーグラーにとって、それは単なる創作上の困難ではなかった。ボーズマンとは、現場を越えた関係を築いていた。「僕とチャドは親しくなっていたから、心に深い傷を負った状態だった」。彼はその喪失を、こう表現している。「誰かが太陽を奪い去って、僕たちは皆、漂う惑星のようだったんだ」。この出来事は、彼の内面にも静かな変化をもたらした。ボーズマンと共に過ごした時間を振り返りながら、クーグラーはこう語る。「僕は自分自身から、その特権を本当に楽しむ自由を奪っていた」。映画がうまくいかないと確信し、価値がないと感じ続けていた自分が、どれほど多くの瞬間を味わわずに通り過ぎてきたか。「彼に悪いテイクなんてなかったから」。

彼が亡くなった時、『ああ、なんてことだ』って思った」。そして続ける。「自分が頭の中で——自分には価値がないと感じて——どれだけ多くのものを楽しむことを許さなかったんだろう」。その気づきは、悲しみと同時に、ひとつの決意へと変わっていく。「僕はチャドから学んだことを人生の残りずっと持ち続けるよ」。クーグラーは声を落として語る。「物事の良い面を見て、物事の価値を見て、インポスター症候群や罪悪感や否定的な気持ちに、愛する出演者との瞬間や——『おつかれさま』と言いたい人々との瞬間を奪わせてはいけないんだ」。

『ブラックパンサー/ワカンダ・フォーエバー』は、確かな成功を収めた。そしてクーグラーは後に、この作品が「もう一本の『ブラックパンサー』よりも家庭ではるかに多く観られている」ことに触れる。人々が何かを失い、何かを感じたい時に手に取る映画になったのかもしれない、と。

この喪失は、クーグラーから不安を完全に消し去ったわけではない。だが、自分を責め続けることが、創作にも人生にも何ももたらさないことを、彼はこの時、はっきりと知った。その理解は、やがて彼を、自身のルーツと向き合わせ、次の作品へと導いていく。

ミシシッピへの旅──『罪人たち』の源流

世界中を旅してきたクーグラーには、ひとつだけ行けていなかった場所があった。大叔父ジェームズ・エドモンソンの出身地であるミシシッピだ。彼は2015年に亡くなっている。なぜ、そこへ向かわなかったのか。クーグラーは自分に問い直すことになる。「自分に問わなければならなかった、『なぜなんだ?』ってね」。

答えは単純ではなかった。「恥が、南部に行かないことと大いに関係していたんだ」。ミシシッピは、彼の家族史とアメリカの歴史が最も生々しく重なり合う場所だった。大移動の第二波の産物として北へ向かった家系。その背後には、奴隷制とジム・クロウ法の現実がある。向き合うことを避けてきた過去が、そこにはあった。

転機になったのは、再び映画だった。ブルース音楽をクーグラーに紹介した叔父の遺産が、ひとつの物語の核として浮かび上がる。彼は作曲家ルドヴィグ・ゴランソンと共に、ミシシッピ・ブルース・トレイルを辿った。感動と痛みが入り混じる旅だったという。音楽が生まれた土地、奪われ、受け継がれてきた表現の歴史。そのすべてが、自身のルーツと切り離せないものとして迫ってきた。

この旅は、個人的な理解にとどまらなかった。クーグラーは10年以上、既存のIPに基づかない映画を作っていなかった。フランチャイズやシリーズを通じて語ってきた彼が、再び“自分自身の物語”へ戻る準備が整った瞬間でもあった。彼は素早く、ほとんど強迫的とも言える速度で脚本を書き進めた。舞台は1932年のミシシッピ。双子のスモークとスタックが、ジュークジョイントを開こうとする——そこに持ち込まれたのは、ブルースへの頌歌であり、文化的祖先と所有を巡る問いであり、そして恐ろしくも官能的なヴァンパイア映画という形式だった。

『罪人たち』は、この旅なしには生まれなかった。過去から目を背けず、恥と向き合い、文化の起源に耳を澄ます。その行為そのものが、クーグラーにとって次の一歩だった。そしてそれは、彼が初めて“自分自身の作品”を、自分の名義で世に送り出すことを意味していた。

『罪人たち』──観客のために作られた映画

『罪人たち』は、クーグラーにとって久しぶりの“完全なオリジナル作品”だっただけでなく、初めてジンジ・クーグラー、そして長年の友人セヴ・オハニアンと共に、自身の監督作を自らの製作会社プロキシミティ・メディア名義で手がけた作品でもある。文化的祖先、所有、流用という重いテーマを扱いながら、ヴァンパイア映画として手がけた。

この作品において、クーグラーはかつて以上に明確に“観客”を意識していた。その姿勢は、映画全体に通底している。クーグラーの遊び心のある統率と、撮影監督オータム・デュラルド・アーカポーの視線が生み出す映像は、排他的ではなく招待的だ。難解さで選別するのではなく、観る者を内部へ引き込むための設計がなされている。
作品の中心に置かれた“シュール・モンタージュ”といえる場面では、何世紀にもわたる音楽と身体表現が圧縮され、芸術と祖先の喜びが集団的なかたちで立ち上がる。衣装デザイナーのルース・E・カーターは、このシークエンスについてこう語る。「異なる分野から読んだ全ての人が音楽を聞き、動きを見て、衣装を見ることができた」。素材を共有しつつ、個々の創造性が発揮される余地を残すこと。それは、クーグラーが現場で長年かけて培ってきたやり方でもあった。

業界内で『罪人たち』が語られる時、多くの場合、このモンタージュへの言及が続く。マーベル・スタジオのトップであり、『ブラックパンサー』のプロデューサーでもあるケヴィン・ファイギは、「音楽は僕にとって信じられないほど意味深かった」と語り、「それだけで作品賞を受賞すべきだ」とまで言い切った。

『罪人たち』は、公開前には“高額で奇妙な映画”とも評されていた。しかし結果は明確だった。オリジナル作品として異例の興行成績を重ね、アカデミー賞史上最多ノミネートという記録を打ち立てる。だが、クーグラーにとって最も重要だったのは、数字そのものではない。「毎日観客のことを考えていた」。彼はそう語る。「自分のことを考えてくれていたと知るのは、時に嬉しいことだよね?」。かつては、自分がここにいる理由を証明しようとしていた映画作家は、いま、誰かと同じ時間を共有するために映画を作っている。その変化こそが、『罪人たち』という作品の核心だった。

40歳、そしてこれから──「長く仕事をしたい」

クーグラーは2026年5月に40歳になる。もはや“若き才能”と呼ばれる年齢ではない。彼自身も、そのことを自覚している。何を語り、どう振る舞い、いつ立場を表明するか。その選択が、以前よりもはるかに重みを持つようになったようだ。

『罪人たち』の成功によって、彼は業界の中心に立った。しかし、その立場から放たれる言葉は慎重だ。例えば、ワーナー・ブラザースを巡る環境の変化について問われた際も、彼は余計な断定を避けつつ、自分の出自に立ち返る。「常に主張していくのは僕の仕事だよ」。労働組合の話を聞いて育った経験から、統合が「仕事の減少、機会の減少」につながることへの懸念を語る。その視点は、映画監督という肩書きよりも、ひとりの労働者としての感覚に近い。それでも彼は、闘争的な人物ではない。理想的でない状況の中でも、「目と耳を開いて、最善を期待する」姿勢を崩さないという。成功によって声を大きくするのではなく、声の使い方を選ぶ段階に入ったのだと言える。

次回作は『ブラックパンサー』第3作になることが明かされているが、今の彼の頭を占めているのは、『X-ファイル』の脚本だ。子どもの頃、母親と共に夢中で観ていた作品。キャリアの円環が、思いがけないかたちで閉じようとしている。「脚本を納品しなければならないという不安から離れて、1日過ごせたらいいのにと思う時があるよ」。そう語る彼は、今でも瞬間を完全に楽しむことに苦労している。

それでも、変化は確かにある。クーグラーは、自分の功績を語られることを好まない。その代わりに、彼は長く共に働いてきた人々の名前を挙げ、恩師や仲間の話をする。クリストファー・ノーランマイケル・ケインと語り合う関係性に触れながら、彼はそこに“若々しさ”を見るという。「彼らは年を取らない。それはとても伝染性があって、希望を与えてくれるんだ」。

長く仕事をしたいんだ」。その言葉は、野心というより願いに近い。かつては、自分がここにいる資格を証明しようとしていた。今はただ、信頼できる人々と共に、時間を重ねながら映画を作り続けたいと考えている。

『罪人たち』は、ひとつの到達点であると同時に、通過点でもある。自己否定と共に歩んできた10年を経て、ライアン・クーグラーはようやく、自分がここにいる理由を問い続けることから、解放され始めているのかもしれない。

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