映画『ウィッチ』(2015)を紹介&解説。
映画『ウィッチ』概要
映画『ウィッチ』は、ロバート・エガース監督(『ライトハウス』『ノースマン 導かれし復讐者』『ノスフェラトゥ』)が長編デビューを飾ったフォークホラー。1630年代のニューイングランドを舞台に、共同体を離れて森のそばで暮らし始めた敬虔な一家が、赤ん坊の失踪をきっかけに疑心暗鬼と信仰の恐怖に呑み込まれていく姿を描く。主演はアニャ・テイラー=ジョイ、共演にラルフ・アイネソン、ケイト・ディッキー、ハーヴェイ・スクリムショウら。
作品情報
| 日本版タイトル | 『ウィッチ』 |
|---|---|
| 原題 | The Witch(別題:The VVitch: A New-England Folktale) |
| 製作年 | 2015年 |
| 本国公開日 | 2016年2月19日(アメリカ) |
| 日本公開日 | 2017年7月22日 |
| ジャンル | ホラー/フォークホラー/歴史劇 |
| 製作国 | アメリカ/カナダ |
| 原作 | 無 |
| 上映時間 | 93分 |
| 監督・脚本 | ロバート・エガース |
|---|---|
| 製作 | ジェイ・バン・ホイ/ラース・クヌードセン/ジョディ・レドモンド/ダニエル・ベーカーマン/ホドリゴ・テイシェイラ |
| 製作総指揮 | ロウレンソ・サンタナ/ソフィー・マス/マイケル・サックラー/ジュリア・ゴジンスカヤ/クリス・コロンバス/エレノア・コロンバス/アレックス・サガルチック/アレクサンドラ・ジョーンズ/ジョナサン・ブロンフマン/トーマス・ベンスキー/ルーカス・オチョア |
| 撮影 | ジェアリン・ブラシュケ |
| 美術 | クレイグ・レイスロップ |
| 編集 | ルイーズ・フォード |
| 衣装 | リンダ・ミュア |
| 作曲 | マーク・コーベン |
| 出演 | アニャ・テイラー=ジョイ/ラルフ・アイネソン/ケイト・ディッキー/ハーヴェイ・スクリムショウ/エリー・グレインジャー/ルーカス・ドーソン |
| 製作 | パーツ&レイバー/RTフィーチャーズ/ルークス・ネスト・エンターテインメント/メイデン・ボヤージュ・ピクチャーズ/モット・ストリート・ピクチャーズ ほか |
| 配給 | A24(アメリカ)/インターフィルム(日本) |
あらすじ
1630年代、ニューイングランド。敬虔なキリスト教徒のウィリアムは、妻キャサリンと5人の子どもたちを連れ、共同体を離れて森のそばの荒地に移り住む。新天地で信仰に基づいた暮らしを築こうとする一家だったが、赤ん坊のサムが何者かにさらわれ、行方不明になってしまう。悲しみと不安が家族を覆う中、不可解な出来事が相次ぎ、長女トマシンに魔女の疑いが向けられていく。やがて一家の信仰、愛情、絆は、森に潜む得体の知れない恐怖によって試されていく。
主な登場人物(キャスト)
トマシン(アニャ・テイラー=ジョイ):ウィリアム家の長女。赤ん坊サムの失踪が、家族から魔女ではないかと疑われるきっかけになってしまう。信仰と抑圧、家族への愛情の狭間で追い詰められていく本作の中心人物。
ウィリアム(ラルフ・アイネソン):一家の父。宗教的信念を重んじ、共同体を離れて森の近くに移り住む。家族を守ろうとする一方で、生活の困窮と信仰への固執が、家庭内の不安を大きくしていく。
キャサリン(ケイト・ディッキー):ウィリアムの妻で、トマシンたちの母。赤ん坊サムを失った悲しみから精神的に追い詰められ、祈りと疑念にすがるようになっていく。
ケイレブ(ハーヴェイ・スクリムショウ):トマシンの弟。父ウィリアムを慕い、家族のために働こうとする少年。森での出来事を通じて、一家の恐怖と信仰の揺らぎを象徴する存在となる。
マーシー(エリー・グレインジャー)、ジョナス(ルーカス・ドーソン):トマシンの妹・弟である双子。幼さゆえの無邪気な言動が、家族の疑心暗鬼をさらにかき立てていく。
ブラック・フィリップ(ヤギ:チャーリー/声:ワッハーブ・チョウドリー):一家が飼う黒山羊で、本作を象徴するキャラクター。
作品の魅力解説
『ウィッチ』の大きな魅力は、派手なジャンプスケアではなく、信仰、迷信、家族の不信感が少しずつ積み重なっていく心理的な恐怖にある。赤ん坊の失踪という悲劇を起点に、家族それぞれの罪悪感や抑圧が噴き出し、家庭そのものが恐怖の密室へと変わっていく。
ロバート・エガース監督らしい緻密な時代考証も見どころ。衣装、言葉遣い、住居、自然光を活かした暗い映像設計によって、17世紀ニューイングランドの空気が生々しく再現されている。森、農地、家屋という限られた空間だけで、宗教的な閉塞感と超自然的な不気味さを立ち上げている点が特徴的だ。
また、本作はアニャ・テイラー=ジョイの映画デビュー作としても重要な1本。トマシンの不安、孤独、怒り、解放への欲望を抑制された演技で表現し、ロバート・エガース作品特有の「美しくも不穏な画面」の中心に強い存在感を刻み込んでいる。
魔女は実在するのか、それとも家族の信仰と恐怖が生んだ妄想なのか。本作はその境界を曖昧に保ちながら、観客に不安を残し続ける。フォークホラー、宗教ホラー、家族崩壊ドラマとして多面的に楽しめる、現代ホラーを語る上で欠かせない作品だ。
ストーリー解説(ネタバレ)
共同体から追放される一家
物語の舞台は、1630年代のニューイングランド。敬虔なピューリタンの一家が、植民地の共同体から追放されるところから映画は始まる。父ウィリアムは、自分たちの信仰こそが正しいと信じ、共同体の判断に従おうとしない。彼は神への信仰を失った男ではなく、むしろ信仰に強くすがる男として描かれる。だがその信仰は、家族を守る柔軟な知恵ではなく、「自分たちは正しい」という頑なな自己認識と結びついている。
一家は共同体を離れ、森のそばに新しい農場を築く。父ウィリアム、母キャサリン、長女トマシン、長男ケイレブ、双子のマーシーとジョナス、そして赤子サムエル。彼らは神に祈り、土地を耕し、自給自足で生きようとする。しかし、その土地は豊かではなく、森は常に不気味な気配を放っている。ここでの森は、単なる自然ではない。教会と共同体の外側、つまり信仰による秩序が届かない場所として描かれている。
重要なのは、この一家の不幸が「魔女の襲撃」だけで始まるのではないことだ。すでに彼らは社会的にも宗教的にも孤立している。父の信仰的プライドによって共同体から切り離され、母は不安を抱え、子どもたちは大人の判断に従うしかない。森の魔女が本格的に一家を崩壊させる前から、家族はすでに壊れる条件を抱えている。
赤子サムエルの失踪
長女トマシンが赤子サムエルの面倒を見ている。彼女はサムエルをあやすように遊んでいるが、一瞬だけ視界を遮った次の瞬間、赤子は消えてしまう。何の前触れもなく、音もなく、サムエルだけが世界から切り取られるように失踪する。
観客には、その背後に本物の魔女的存在がいることが示される。赤子は森へ連れ去られ、老いた女のような存在によって凄惨な儀式に使われる。ここで本作は、「魔女は実在しない。すべては妄想だった」という心理劇にはしない。少なくとも作中世界には、人間を超えた悪意が確かに存在している。
しかし、物語上さらに重要なのは、赤子が「トマシンの目の前で」消えたことだ。トマシンは加害者ではない。だが、赤子を見ていたのは彼女である。この状況が、以降の家庭内魔女狩りの出発点になる。赤子が消えた理由を説明できない家族は、やがて「誰の罪か」「誰が悪魔を招いたのか」という方向へ向かっていく。
この時点でトマシンは、家族の中で最も危うい位置に置かれる。彼女はまだ少女だが、幼児ではない。家事を担い、弟妹の世話をし、母の補助をする存在でありながら、思春期に差しかかる若い女性でもある。その曖昧な立場が、魔女狩りの論理と結びついていく。彼女は「何かをしたから」疑われるのではなく、「そう見える」から疑われていく。
家族の悲しみは、すぐに宗教的不安へ変わる
サムエルの失踪後、家族は悲しみに沈む。だが本作で残酷なのは、彼らがただ赤子の死や喪失を悲しむことすらできない点である。ピューリタン的な信仰の中では、赤子の魂がどうなったのかという問題がすぐに浮上する。
母キャサリンにとって、サムエルはただ失われた赤子ではない。洗礼を受けられなかった子どもでもある。つまり彼女は、我が子が生きているか死んでいるかだけでなく、その魂が救われたのか、地獄にいるのかという恐怖にも苦しめられる。信仰は彼女を慰めるどころか、喪失にさらなる重みを加えていく。
父ウィリアムは、神の摂理に従うべきだと考えようとする。しかし彼の言葉は、妻や子どもたちを安心させない。なぜなら、彼自身にも答えがないからだ。家族をこの荒野へ連れてきたのは彼であり、共同体から離れたのも彼の判断である。にもかかわらず、赤子の失踪という最悪の事態が起きても、彼は根本的に道を変えようとしない。
ここに、本作の父親像の痛烈な皮肉がある。ウィリアムは家族を導いているつもりでいるが、実際には家族を守れていない。信仰にすがっているようでいて、本当は「自分の信仰判断は間違っていない」という自己像に縛られている。
トマシンへの疑いが芽生える
赤子の失踪は、家族の中に説明不能の穴を開ける。母キャサリンは深く傷つき、その悲しみは次第に怒りへ変わっていく。彼女の視線は、赤子を見ていたトマシンへ向かう。
もちろん、トマシンは赤子を消したわけではない。だが魔女狩りとは、必ずしも確かな証拠から始まるものではない。むしろ不幸、喪失、不作、病、子どもの死といった説明しがたい出来事に対して、人々が「原因に見えるもの」を探し始めるところから起きる。
トマシンはその条件に合ってしまう。赤子のそばにいた。母との関係がぎくしゃくしている。思春期に近づいている。家の中で労働力として扱われながら、完全には大人として認められていない。こうした要素が重なり、彼女は「疑いを置く器」にされていく。
本作の怖さは、ここにある。森の外には本物の魔女がいる。だが家の中では、魔女がいなくても魔女狩りの論理が動き始めている。
銀の杯が消え、父の嘘が家族をさらに壊す
家族の中でもう一つ重要な火種になるのが、母キャサリンの大切にしていた銀の杯の消失である。この銀の杯は、キャサリンの父から受け継がれたものであり、彼女にとっては単なる食器ではない。失われた故郷、家族の記憶、過去の生活とのつながりを象徴する品である。
しかし実際には、この杯を盗んだのはトマシンではない。父ウィリアムが罠を手に入れるために、妻に黙って銀の杯を売っていた。銀の杯は、父の隠し事と家族内の冤罪を結ぶ重要な小道具として機能する。
キャサリンは杯が消えたことで、さらにトマシンを疑う。赤子が消えたときもトマシンがいた。銀の杯も消えた。母の中では、これらの出来事が一本の線でつながっていく。しかし本当の原因を知っているウィリアムは、すぐには真実を明かさない。
ここで父は、家族を守る者ではなく、家族の疑心暗鬼を加速させる者になる。彼は信仰を語り、神の前で正しくあろうとするが、実際には妻に嘘をつき、娘が疑われる状況を放置している。家庭内の魔女狩りは、母の錯乱だけで生まれたものではない。父の嘘と沈黙が、それを可能にしている。
ケイレブと父の森の会話
やがてウィリアムとケイレブは森へ向かう。表向きは食料を得るため、罠を仕掛けるための行動だが、この場面では父子の信仰観がはっきりと示される。
ケイレブは、消えた赤子サムエルの魂を心配している。サムエルは赤子であり、自分で罪を犯したわけではない。だが父ウィリアムの教える信仰では、人間は生まれながらに罪を持つ。ケイレブは、赤子でさえ救われる保証がないという考えに直面する。
ここでケイレブは、単に弟のことを心配しているだけではない。彼は自分自身の救いについても不安になっていく。もしサムエルが救われないかもしれないなら、自分はどうなのか。自分の中に罪があるなら、自分も地獄へ行くのではないか。父は神学的には正しい答えを語ろうとするが、息子の恐怖を取り除くことはできない。
この場面のウィリアムは、子を愛する父であると同時に、子を安心させる言葉を持たない信仰者でもある。彼は息子に「必ず救われる」とは言えない。救いは神の領域だからだ。しかしその誠実さは、ケイレブにとっては救いではなく、むしろ地獄への恐怖として届いてしまう。
黒い野兎と、森の誘い
森の中で、父子は不気味な野兎に遭遇する。野兎はただの獲物のようには見えない。奇妙にじっと彼らを見つめ、ウィリアムが撃とうとすると銃はうまく機能せず、野兎は逃げていく。この野兎は、後の展開にもつながる重要なモチーフである。
この野兎は、森の側から人間を見返す視線のように機能している。ウィリアムにとっては狩りの対象だが、映画の演出上は、むしろ一家の弱さを観察する存在に見える。父は動物を仕留められず、食料も得られず、家族を養う力のなさを露呈する。
さらに、この野兎はケイレブの欲望とも結びついていく。ケイレブは信仰心の強い少年である一方、姉トマシンの身体に視線を向けてしまうなど、思春期の罪悪感を抱えている。森の野兎は、そんなケイレブを現実の家族秩序から、誘惑と悪魔の領域へ引き込む導線になる。
トマシンを奉公に出す計画
家庭内の緊張はさらに悪化する。母キャサリンは、赤子と銀の杯の件でトマシンへの不信を強める。家族の食料事情も悪く、生活は限界に近づいている。
やがてウィリアムとキャサリンは、トマシンを別の家へ奉公に出すことを考え始める。これは、単なる労働力の整理ではない。家族にとって邪魔になった、あるいは不安の原因と見なされ始めた娘を外へ出そうとする判断でもある。トマシンとケイレブは、その会話を聞いてしまう。
トマシンにとって、これは家の中に自分の居場所がなくなりつつあることを意味する。彼女は赤子を失った責任を背負わされ、銀の杯の件でも疑われ、さらに家から出されそうになる。まだ魔女ではない少女が、家族の中で「問題の原因」として扱われ始めている。
ケイレブは姉を守ろうとする気持ちもあり、自ら森へ向かう決意をする。父と母の計画を聞いた彼は、トマシンを救いたいという思いと、家の危機を何とかしたいという焦りから、森へ踏み込んでいく。
ケイレブとトマシンの森行き
ケイレブは馬に乗り、森へ向かう。トマシンもそれに同行する。これは食料や獲物を得るための行動であると同時に、家族の中で追い詰められた子どもたちが、自分たちで何とかしようとする行動でもある。
しかし、森はすでに一家にとって危険な場所として描かれている。ここは共同体の外、父の信仰の統制が届かない場所であり、魔女や悪魔的な力が潜む領域である。
やがて犬が野兎を追い、ケイレブもそれを追う。トマシンは落馬し、意識を失う。ケイレブは一人で森の奥へ入り込んでしまう。ここで、家族内の保護関係は完全に崩れる。父は不在、母も不在、トマシンは倒れ、ケイレブは森に飲み込まれる。
ケイレブが森へ導かれる流れは、赤子サムエルの失踪とは違う形の「誘拐」である。赤子は無力な存在として奪われた。ケイレブは、罪悪感と欲望を抱えた少年として、森の誘惑に引き込まれる。
ケイレブが魔女と出会う
森の奥で、ケイレブは一軒の小屋のような場所にたどり着く。そこに現れるのは、若く美しい女の姿をした魔女である。彼女はケイレブを恐怖で襲うのではなく、誘惑する。
この場面が重要なのは、魔女がケイレブの弱点に合わせて現れていることだ。ケイレブは信仰心の強い少年であり、地獄を恐れている。しかし同時に、性への目覚めと罪悪感を抱えている。だから魔女は、醜悪な怪物ではなく、彼の欲望を刺激する美女として姿を見せる。
赤子サムエルに対して魔女は暴力として現れた。ケイレブに対しては誘惑として現れる。つまり本作の魔女や悪魔は、相手の弱さに応じて姿を変える。無力な赤子は奪われ、罪に揺れる少年は誘われる。
ケイレブは魔女に口づけされるようにして、悪魔的な力に触れてしまう。この時点で、彼は家族の中で最も明確に「森の悪」に接触した人物になる。
トマシンの帰還と、さらに強まる疑い
一方、トマシンは森で意識を失ったあと、家に戻る。だがケイレブは戻らない。彼女は自分の見たことを説明しようとするが、家族の中ではすでに彼女への疑いが蓄積している。
赤子サムエルが消えたときも彼女がいた。銀の杯の件でも疑われた。今度はケイレブと森へ行き、ケイレブだけが戻らない。客観的にはトマシンが悪いわけではない。しかし「そう見える」状況だけが積み重なっていく。
これこそが、家庭内の魔女狩りの恐ろしさである。真実よりも先に、疑いを補強する材料が集められる。トマシンは魔女だから疑われるのではない。疑われ続けることで、家族の中で魔女のように扱われていく。
母キャサリンの不信はさらに強まり、父ウィリアムも家族を守る明確な判断を下せない。彼は自分の失敗、銀の杯の嘘、共同体から離れた判断を根本的に認められないまま、ただ祈りと信仰の言葉で事態を処理しようとする。
ケイレブの帰還と、祈れない双子
やがてケイレブは発見され、家へ戻される。しかし彼の状態は異常である。裸同然で、衰弱し、意識も朦朧としている。家族は彼を囲み、何が起きたのかを理解しようとする。
この時点で、家族の恐怖は完全に現実のものになる。赤子は消え、銀の杯は消え、ケイレブは森から壊れた状態で戻ってくる。もう「気のせい」では済まされない。だが彼らは真相に近づくのではなく、さらに宗教的な疑念と告発へ向かっていく。
家族は祈りによってケイレブを救おうとする。しかしその中で、双子のマーシーとジョナスが祈れないことが問題になる。彼らは以前から黒山羊ブラック・フィリップと親密に遊び、ブラック・フィリップが話すかのようなことを言っていた。
現代的に見れば、子どもが動物に話しかけること自体は珍しくない。恐怖のあまり祈りの言葉が出なくなることもあるだろう。しかし、この家族の宗教的世界観では、それは単なる子どもの振る舞いでは済まされない。祈れないことは、神の言葉が届かない、悪魔に触れられているかもしれない徴候として受け取られる。
ここで、トマシンもまた魔女狩りの論理に加わってしまう。彼女は自分だけが疑われることに耐えきれず、双子がブラック・フィリップと話していたことを指摘する。被害者であるトマシンも、追い詰められた結果、別の誰かを疑いの対象にする。
これが本作の非常に残酷な構造である。魔女狩りは、一方的に加害者と被害者が分かれているだけではない。疑われた者が、自分を守るために別の者を疑う。家族全員が、互いを信じる共同体ではなく、互いを告発する小さな裁判所になっていく。
ケイレブの発作と死
ケイレブの状態はさらに悪化する。彼は苦しみ、痙攣し、やがて口からリンゴのようなものを吐き出す。このリンゴは、アダムとイブの原罪、禁断の果実を強く連想させる象徴的な描写である。
ケイレブは森で魔女に誘惑された。彼は欲望と罪悪感に揺れていた少年であり、その身体からリンゴが吐き出されることは、悪魔的なもの、あるいは罪の象徴が体内から現れるように見える。
ただし、この場面は単なる悪魔憑きとしてだけ描かれているわけではない。リンゴを吐き出したあと、ケイレブはキリストへの愛を語る。彼の言葉は熱っぽく、恍惚的で、死に向かう祈りのようでもある。
ここでケイレブは、悪魔に完全に奪われた存在なのか、それとも死の直前に救いへ向かっているのか、二重に見える。少なくとも映画は、彼を単なる犠牲者としてだけではなく、罪を自覚し、最後に神へ向かおうとする少年として描いている。
しかし、残された家族にとって、その「救い」は何の確証にもならない。ケイレブが本当に救われたのか、神のもとへ行ったのか、人間には分からない。信仰は家族を慰めず、むしろ「なぜ神は子どもを守らなかったのか」「誰が悪魔を招いたのか」という疑いをさらに強めていく。
ケイレブは、家族の前で息絶える。彼の死は、家族にとって決定的な崩壊の瞬間になる。赤子サムエルは消えた。ケイレブは帰ってきたが、救えなかった。双子は祈れない。母は限界に達している。父は信仰の言葉を持っているが、現実の危機には何もできない。トマシンは、さらに深く疑いの中心に置かれていく。
ウィリアムはようやく罪を認めかける
ケイレブの死後、父ウィリアムはようやく自分の罪と向き合い始める。彼は銀の杯を売ったことを隠し、トマシンが疑われる状況を放置した。また、自分の信仰こそ正しいと信じて共同体から離れ、家族を荒野へ連れてきた。
ウィリアムは祈りの中で、自分の高慢や過ちを神に告白する。彼は、自分が家族をこの状況へ導いたことを理解し始めている。ここは彼が単なる頑固者ではなく、罪の意識を持つ人物であることを示す場面でもある。
ただし、彼はここで根本的に行動を変えるわけではない。共同体へ戻ろうとするわけでも、ただちに助けを求めるわけでも、トマシンを全面的に守るわけでもない。彼はまだ、神への祈りと自分の信仰体系の中で事態を処理しようとする。
つまりウィリアムは、自分の過ちに気づきかけている。しかし、現実的な道を選ぶには遅すぎるし、彼自身のプライドと信仰の枠組みから完全には降りられない。
ここが彼の悲劇である。彼は「神に従っている」と信じていたが、実際には「神に従っている自分」という自己像に縛られていた。そしてその自己像を手放せないまま、家族を破滅へ導いてしまう。
子どもたちは小屋に閉じ込められる
ウィリアムは、トマシンと双子を山羊小屋に閉じ込める。これは、父として家族を守る判断というより、もはや誰を信じればよいか分からなくなった男の場当たり的な対応に見える。
トマシンは、双子がブラック・フィリップと関わっていると訴える。双子は怯える。だが父は、明確な真相にたどり着けないまま、子どもたちをまとめて隔離する。ここで家族は完全に分断される。
この小屋の場面は、家庭内魔女狩りの帰結でもある。疑いが止まらなくなった家族は、互いを守るのではなく、互いを閉じ込める。父は裁判官のように振る舞うが、実際には何も裁けていない。彼は真実を見抜けず、子どもたちを守れず、ただ恐怖を一か所に押し込めているだけである。
そして皮肉なことに、父が子どもたちを閉じ込めたことで、彼らはさらに無防備になる。家族の保護から切り離された子どもたちは、魔女や悪魔にとって格好の標的になってしまう。
小屋に現れる魔女
夜、山羊小屋では不気味な出来事が起きる。トマシンと双子が閉じ込められた小屋の中に、魔女的な存在が現れる。ここで映画は、家族の疑心暗鬼だけでは説明できない超自然の恐怖を再びはっきりと示す。
小屋の場面では、山羊から血のようなものが搾られるような異様な光景が描かれ、魔女が家畜や子どもたちの領域に侵入していることが示される。ただし、双子がその後どうなったのか、画面上で具体的な死の瞬間までは明確に描かれない。翌朝、双子は姿を消している。
ここは重要である。双子が本当に悪魔に憑かれていたのか、魔女にさらわれたのか、殺されたのか、その詳細は映画内で完全には説明されない。しかし、彼らがブラック・フィリップと関わっていたこと、祈れなかったこと、そして小屋から消えることによって、観客には「悪魔的な力に取り込まれた」と感じられる。
本作は、すべてを説明しない。だが説明しないからこそ、家族が抱えていた恐怖が現実になったような不気味さが残る。
キャサリンが見る幻
同じ夜、母キャサリンにも異様な体験が訪れる。彼女の前に、死んだはずのケイレブと、失われた赤子サムエルが現れる。キャサリンは、戻ってきた我が子を抱くように、赤子に乳を与える。
しかしこれは、現実の再会というより、魔女または悪魔が見せた幻と考えるのが自然である。キャサリンはすでに、赤子サムエルの喪失、ケイレブの死、夫への不信、トマシンへの疑いによって限界に達している。彼女が最も求めているのは、失われた子どもたちが戻ってくることである。
魔女/悪魔は、ここでも相手の弱点に合わせて現れる。赤子には暴力として、ケイレブには性的誘惑として、双子には遊び相手として。そしてキャサリンには、母としての喪失を埋める幻として現れる。
この場面は、キャサリンの母性が救われる瞬間ではない。むしろ、母としての最も深い傷口を悪魔に利用される場面である。彼女は失った子どもを取り戻したと思い込みながら、現実からさらに切り離されていく。
翌朝、すべてが壊れている
朝になると、山羊小屋は荒らされ、双子は消えている。家族の中で残っているのは、父ウィリアム、母キャサリン、そしてトマシンだけである。だが、もはや彼らは家族として機能していない。
ウィリアムは小屋の惨状を見て、事態が自分の理解を超えていることを知る。彼が信じてきた秩序、父としての権威、信仰による統制は、完全に崩れ去っている。
この段階で、魔女/悪魔は一家の弱い部分をほぼすべて食い尽くしている。赤子サムエルは奪われ、ケイレブは死に、双子は消え、キャサリンは壊れ、ウィリアムは自分の罪と無力さに直面している。
残されたトマシンは、もはや守られるべき娘ではない。家族の中に残った最後の疑いの対象であり、同時に唯一の生存者でもある。彼女が生き残っていること自体が、さらに疑いを強める構造になっている。
ブラック・フィリップがウィリアムを殺す
ここで、黒山羊ブラック・フィリップがついに正体をむき出しにする。これまで双子が話しかけていた動物、家のそばにいた不気味な存在は、ただの山羊ではなかった。
ブラック・フィリップはウィリアムに襲いかかり、角で彼を突く。ウィリアムは抵抗するが、すでに父としても、信仰者としても、家長としても完全に敗北している。家族を守るはずの父は、家畜の姿をした悪魔的存在に殺される。
この死に方は非常に象徴的である。ウィリアムは、森の魔女を支配できなかっただけではない。自分の家にいたブラック・フィリップすら見抜けなかった。悪は外の森にだけいたのではなく、家の中に、子どもたちの遊びの中に、家畜の姿でずっと存在していた。
ウィリアムは神の名のもとに家族を導いてきたつもりだった。しかし最後に彼を殺すのは、彼が管理しているはずだった家畜であり、家の内部にいた悪魔である。これは、彼の支配幻想が完全に破壊される瞬間でもある。
キャサリンの怒りがトマシンへ向かう
ウィリアムの死後、母キャサリンは完全に錯乱し、トマシンに襲いかかる。彼女にとって、もはや現実を整理する余地はない。赤子は消え、ケイレブは死に、双子も消え、夫も殺された。残っているのはトマシンだけである。
キャサリンは、トマシンが家族を破滅させたと考える。さらには、トマシンがケイレブや父を誘惑したかのような言葉すら投げつける。ここには、母の悲しみだけでなく、娘の成長する女性性への恐怖や嫉妬、家族の不幸を一人の女性に押しつける魔女狩りの論理が凝縮されている。
キャサリンはトマシンを母として抱きしめるのではなく、魔女として殺そうとする。家族の最後の結びつきである母娘関係も、ついに裁きと暴力に変わる。
トマシンは抵抗し、母を殺してしまう。これは計画的な殺人ではない。襲われた少女が生き延びるための反射的な行為である。しかし結果として、トマシンは最後の家族を自分の手で失う。
ここで彼女は、完全に孤独になる。共同体からも切り離され、父も母も兄弟も失い、家にも居場所はない。彼女はついに、家族という共同体から完全に排除された存在になる。
トマシンは一人残される
家族が全滅したあと、トマシンだけが残る。彼女は魔女ではなかった。少なくとも、物語の大半において、彼女は魔女として家族を呪った存在ではない。彼女は赤子を奪っていない。ケイレブを誘惑していない。双子を消していない。父を殺したのはブラック・フィリップであり、母を殺したのは正当防衛に近い状況である。
しかし、家族は彼女を魔女として扱い続けた。そしてその結果、彼女は本当に家族の外へ出るしかなくなる。
この構造が本作最大の皮肉である。
トマシンは魔女だったから追放されたのではない。
魔女として扱われ続けたから、最後に魔女の側へ行くしかなくなった。
ここで本作は、魔女狩りの恐ろしさを極めて残酷に描いている。魔女狩りは、無実の人間を殺すだけではない。人間から居場所を奪い、共同体から追い出し、最後にはその人間を本当に“外側”の世界へ押しやってしまう。
ブラック・フィリップとの契約
夜、トマシンはブラック・フィリップのもとへ向かう。彼女は山羊に語りかける。すると、これまで沈黙していたブラック・フィリップがついに言葉を返す。
彼は、トマシンに欲望を差し出す。バターの味、美しい服、豊かな暮らし。つまり、父ウィリアムの神が与えられなかった具体的な幸福を、悪魔は非常に分かりやすい言葉で提示する。
ここが非常に重要である。ウィリアムの神は、家族に祈りを求めた。服従を求めた。罪の自覚を求めた。だが、現実の飢え、寒さ、貧しさ、孤独には答えなかった。
一方、ブラック・フィリップは、トマシンの欲望に直接語りかける。
おいしいものを食べたい。
美しい服を着たい。
苦しみから逃れたい。
生きたい。
悪魔の誘惑は、抽象的な邪悪ではない。むしろ、トマシンがこの家で奪われてきたものを、具体的に差し出してくる。だからこそ恐ろしい。悪魔はただ脅すのではなく、彼女が本当に欲しかったものを知っている。
父の信仰と、悪魔の契約の皮肉
トマシンがブラック・フィリップに従う場面は、父ウィリアムとの強烈な対比になっている。
ウィリアムは、根拠のない信仰にすがり、神の沈黙の中で家族を破滅させた。彼は自分が神に選ばれ、正しい道を進んでいると信じていた。しかしその信仰は、家族を守ることも、赤子を救うことも、ケイレブを救うことも、双子を守ることもできなかった。
一方、トマシンは最後に、ブラック・フィリップという得体の知れない存在に身を委ねる。これは明らかに堕落であり、悪魔との契約である。だが同時に、彼女にとっては唯一残された選択肢にも見える。
ここが本作の後味の悪さである。トマシンは、父のように盲目的な信仰へすがるのではなく、悪魔の提示する新しい共同体へ進む。しかし構造としては、父と似ている部分もある。どちらも、孤独と絶望の中で、目に見えない大きな力に身を委ねている。
つまりラストは、単純な解放ではない。父の信仰から逃れたトマシンが、別の信仰、別の契約、別の支配へ入っていくようにも見える。
トマシンは署名し、家を離れる
ブラック・フィリップは、トマシンに本へ署名するよう促す。トマシンは自分の名前を書くことができない、あるいは書く術を持たないため、ブラック・フィリップが彼女を導くようにして契約を成立させる。
この場面は、トマシンが自分の意志で選んでいるように見える一方、その選択が完全に自由だったのかは疑わしい。彼女は家族を失い、共同体もなく、帰る場所もない。目の前にあるのは、死か、孤独か、悪魔の契約かである。
だから彼女の契約は、自立の選択であると同時に、追い詰められた者の選択でもある。
ここに、本作のラストの両義性がある。トマシンは父と母の支配から解放される。しかしその解放は、悪魔の共同体へ入ることによってしか達成されない。彼女は自由になったのか。それとも、別の力に取り込まれたのか。映画はその答えを一つには絞らない。
森の中の魔女たち
契約を終えたトマシンは、服を脱ぎ、森の奥へ向かう。そこで彼女は、焚き火を囲む魔女たちの集まりを目撃する。裸の女たちが集まり、儀式のような行為をしている。
この場面で、トマシンはついに「家族の外側」にある共同体へ入っていく。父の信仰共同体からは追放され、家族共同体からも排除された彼女が、最後に迎え入れられるのは魔女たちの共同体である。
魔女たちは、トマシンを拒まない。少なくとも画面上では、彼女はその集団に加わっていくように描かれる。ここに奇妙な解放感がある。
それまでトマシンは、家の中で疑われ、責められ、働かされ、抑圧されていた。母からは責められ、父からは守られず、弟妹からも疑われる。彼女は家族の中で居場所を失っていた。
だが森の中では、初めて自分を受け入れる共同体に出会ったようにも見える。だからこのラストは、恐ろしい堕落であると同時に、毒親的な家族からの解放にも見えてしまう。
トマシンが宙に浮き、笑う
魔女たちは宙に浮かび始める。トマシンもまた、彼女たちとともに浮かび上がっていく。そして彼女は笑う。
この笑いは、本作の中で最も解釈が分かれる瞬間である。
一つには、これは悪魔に取り込まれた笑いである。トマシンは神の側を離れ、魔女の共同体に加わり、悪魔の契約を受け入れた。宗教的に見れば、彼女は堕落したと言える。
しかし同時に、この笑いには解放感もある。トマシンは、初めて家父長制、母の疑念、罪の押しつけ、家庭内の裁きから逃れた。誰かの娘、姉、罪人、魔女容疑者としてではなく、自分の身体で宙に浮かび、笑う。
このため、ラストは単純に「悪に落ちた少女の悲劇」とは言い切れない。むしろ本作は、観客に「これは本当に堕落だけなのか」と考えさせる。彼女が入ったのは悪魔の共同体である。だが、それでも家族の中にいるよりは救いに見えてしまう。
この後味のねじれこそが、『The Witch』の恐ろしさであり、魅力でもある。
魔女でなかった少女が、魔女になる
ラストまで見ると、本作の構造は非常に皮肉である。
トマシンは最初から魔女だったわけではない。むしろ家族の中で最も現実的で、地に足のついた視点を持っていた人物に見える。赤子の失踪後も、銀の杯の件でも、ケイレブの森行きでも、彼女は多くの場合、状況に巻き込まれている。
しかし家族は、彼女を魔女として扱っていく。母は彼女を疑い、父は守りきれず、双子への疑いも広がり、ケイレブの死も彼女への疑念を強める。彼女は家庭内の魔女狩りによって、少しずつ家族の外へ押し出されていく。
そして最後に、彼女は本当に魔女の仲間入りをする。
ここに本作最大の皮肉がある。
魔女狩りが、魔女を作ってしまった。
もし一家が共同体に戻っていたら。
赤子が消えた時点で助けを求めていたら。
父が銀の杯の嘘を早く告白していたら。
母がトマシンを罪の器にしなければ。
トマシンが家の中に居場所を持てていたら。
彼女は魔女にはならなかったかもしれない。
しかし、家族はすべての道を閉ざしていく。父のプライド、母の喪失、子どもたちの恐怖、過剰な信仰、そして本物の魔女/悪魔の介入が重なり、トマシンは森へ導かれる。
本作が描く“家庭内の魔女狩り”
『The Witch』の物語は、魔女の恐怖を描きながら、それ以上に「魔女狩りが発生する家庭」の恐怖を描いている。
前半では、赤子の失踪、銀の杯、ケイレブの不安、双子とブラック・フィリップの関係によって、家族の中に疑いが広がっていった。後半では、その疑いが止まらなくなる。
父は子どもを閉じ込め、母は娘を殺そうとし、娘は母を殺す。家族は、互いを守る共同体ではなく、互いを裁く共同体になっている。
そして、この家庭内魔女狩りを外側から利用するのが、本物の魔女と悪魔である。彼らは一家を無理やり壊したというより、もともと家族の中にあった亀裂を広げていく。
赤子は弱いから奪われる。
ケイレブは罪と欲望に揺れているから誘惑される。
双子は幼く、悪魔との距離が分からないから取り込まれる。
キャサリンは喪失に壊れているから幻を見せられる。
ウィリアムはプライドと信仰に囚われているから最後まで現実を変えられない。
トマシンは居場所を失ったから、最後に森へ行く。
この意味で、魔女/悪魔は一家を外側から攻撃するだけではない。家族の内側にある弱さ、嘘、罪悪感、恐怖を利用している。
ラストの救いと絶望
トマシンのラストは、絶望でありながら、奇妙な救いにも見える。
宗教的に見れば、彼女は悪魔と契約し、魔女の仲間入りをした。これは明らかに堕落であり、救済ではない。
しかし物語上は、彼女は初めて家族の支配から解放されたようにも見える。父の信仰に縛られず、母の疑いに責められず、弟妹の世話を押しつけられず、罪の器として扱われない場所へ向かう。森の魔女たちは恐ろしい存在だが、少なくともトマシンにとっては、最後に残された唯一の共同体でもある。
だからこの結末は、観客に単純な感情を許さない。
怖い。
悲しい。
皮肉だ。
でも、少しだけ解放に見えてしまう。
その違和感こそが、本作の後味である。
トマシンは魔女に堕ちたのか。
それとも、魔女にされるしかなかったのか。
彼女は悪魔に奪われたのか。
それとも、家族からようやく解放されたのか。
映画は答えを一つにしない。ただ、確かなのは、トマシンを最後に森へ向かわせたのは、魔女だけではないということだ。
彼女をそこへ押し出したのは、父のプライド、母の喪失、家族の疑心暗鬼、過剰な信仰、そして「そう見える」というだけで人を裁く魔女狩りの構造だった。
まとめ
『The Witch』は、魔女が家族を壊した話である。
同時に、家族自身が魔女を生み出した話でもある。
トマシンは魔女だったから追放されたのではない。
魔女として扱われ、疑われ、居場所を奪われ続けた結果、最後に本当に魔女になってしまう。
その意味で本作は、過剰な信仰によって家庭内に発生する魔女狩りの物語であり、魔女狩りが最終的に“本物の魔女”を作ってしまうという、極めて皮肉な寓話でもある。
ライター/エディター/映画インスタグラマー。2019年に早稲田大学法学部を卒業。東京都職員として国際業務等を経験後、ライター業に転身。各種SNS(Instagram・X)やYouTubeチャンネル「cula 見て聞く映画マガジン(旧:アルテミシネマ)」においても映画や海外ドラマ、音楽といったカルチャーに関する情報レビューを発信している。
