新作映画『戦場0地点』 を紹介&解説するレビュー。
戦場において、2000メートルとはどれほどの距離か。ウクライナ侵攻の最前線を、兵士とまったく同じ目線で記録したドキュメンタリー『戦場0地点』が、9月4日(金)に日本公開を迎える。『マリウポリの20日間』でアカデミー賞に輝いたミスティスラウ・チェルノフ監督が、再びカメラを手に戦火の只中へと分け入った本作は、観る者を安全な傍観者の位置に留めてはくれない。砲撃と銃弾が飛び交うその場所へ、私たちを否応なく引きずり込む一作だ。
映画『戦場0地点』レビュー
「2000メートル」が途方もなく遠い戦場
本作の構成を貫くのは、原題にも刻まれた「2000メートル」という距離だ。地図の上に置けば、それはあまりに短い。平時であれば、ものの数十分も歩けば渡りきってしまう道のりである。しかし砲撃が空を裂き、銃弾が飛び交い、地雷が地に伏し、自爆ドローンが頭上を狙う戦場において、その2000メートルはどこまでも遠い。
画面に刻々と示される残りの距離が縮んでいくほど、その一歩一歩が、どれほどの犠牲と引き換えに勝ち取られたものかが、否応なく突きつけられてくる。
最前線に身を置く監督の覚悟
本作を圧倒的たらしめているのは、これが前線で撮られた映像を後から寄せ集め、編集台の上で組み立てただけの作品ではない、という一点に尽きる。チェルノフ監督は自ら兵士たちと行動を共にし、戦争の最前線そのものへカメラを持ち込んだ。そこへ兵士のヘルメットカメラや、頭上を旋回するドローンが捉えた映像が幾重にも重ねられていく。その結果、観客は安全な後方から戦況を俯瞰するだけではなく、兵士とまったく同じ目の高さで、あの2000メートルを一歩ずつ進まされることになる。
国を守るために前線へ身を投じる兵士たちの勇気も途方もないものだが、「映像を残し、世界へ届ける」というひとつの目的のために、兵士と寸分違わぬ危険のただ中へ、ほかならぬ“映画のため”に自らを置くチェルノフ監督の覚悟もまた、はかりしれない。『マリウポリの20日間』に続く本作からも、記録されなければ戦争の現実などたやすく忘れ去られてしまう——その切迫した危機感に貫かれた、執念とすら呼ぶべきジャーナリスト魂が、画面の隅々から伝わってくる。
惜しむらくは、視点の所在の不明瞭さ
一つだけ注文をつけるなら、視点の所在である。本作は複数の兵士が携えたカメラと、一人称のヘルメットカメラの映像を織り交ぜて構成されているため、いま画面を見ているのが誰の目なのか、即座には掴めない場面がかなり多い。その都度「これは誰の視点か」との思考が生じ、それがささやかなノイズとなって没入を削ぐ瞬間がある。戦場の只中に身を置く兵士たちへ、腰を据えて感情移入したいと願うからこそ、視点の切り替わりだけはもう少し明快に示してほしかった、というのが正直なところだ。
何気ない会話の、すぐ隣にある死
本作がカメラに収めるのは、戦闘の光景だけではない。なぜ自分は戦争に加わったのか、家族のもとへ帰れたら何をしたいか、いま吸っている煙草の味はどうか——兵士たちは、そんなごく他愛のない言葉を交わし合う。その雑談の最中にも迫撃砲は容赦なく着弾し、彼らは爆音に身をすくめる。だが、しばらくすればまた何事もなかったように会話が再開される。この光景は、彼らもまた戦争が始まる前には、私たちと少しも変わらない日常を生きていた一人ひとりなのだという事実を、確かな重みをもって突きつけてくる。そしてそのリアルこそが、観客に戦争を頭で理解させるのではなく、皮膚感覚で“体感”させるのだ。
自分たちも日々交わしているような、何気ない言葉のすぐ隣に、運が悪ければ命を落とす一瞬が転がっている。普段の暮らしからは想像すらできない話だ。だが、この映画を観てしまえば、その想像もつかないはずの現実を、確かに我がこととして想像させられてしまう。
だからこそ、つい先ほどまで言葉を交わしていた兵士が、次の場面では物言わぬ身体と化している——その落差が、鈍く重くのしかかってくる。友の死を確認する兵士のヘルメットカメラを通して、観客が一人称の視点でその現場に立たされてしまう場面もある。あるいは、戦闘のさなかに過去を懐かしみ、未来を語っていた人物の死が、後に差し込まれる数行のキャプションによって、そっと明かされることもある。ここに生まれる痛切なまでの臨場感は、決して衝撃を煽るための演出ではない。一つ、また一つと失われていった命の重さから、観客に目を背けさせないための、監督の倫理そのものなのだ。
勝敗の計算では語れない不条理
この戦いは、ウクライナに勝機があるか否か、という損得の計算だけで語り尽くせるものではない。母国と、かけがえのない人々が侵攻の脅威にさらされている以上、たとえ戦況がどれほど不利であろうと、兵士たちは敵の前に立ちはだかる以外に道を持たない。この戦いに意味はあるのか——そう問わずにはいられない状況の中で、それでも命が散っていく。その事実は、観ていて胸が締めつけられるほどに痛ましい。
そして、ウクライナの人々だけが悲劇の側にいる、という単純なことでもない。画面のもう一方に映し出されるロシア兵の中にも、なぜ戦うのかを十分に理解しないまま、国家の号令一つで最前線へ駆り出された者が確かにいる。本作は、ロシアによる侵攻という加害と被害の構図を決して曖昧にはしない。そのうえで、国家の決定によって戦場へ送り込まれた一個人が、敵味方の別なく命を賭し、時に敵兵から「死ねクソ野郎」と罵声を浴びせられながら人生を奪われていく——そんな戦争の底知れぬ不条理にまで、まなざしを届かせている。
この戦争が、いつ、どのような形で終息へ向かうのか、その答えを持ち合わせている者など誰もいない。それでも、この映像が世界の隅々にまで届き、戦場から遠く隔たった場所にいる観客が、そこで繰り広げられた現実を前に言葉を失い、かの地に確かに生きた一人ひとりの名前を胸に刻む——その一連の営みに、まぎれもなく確かな意味がある。
『戦場0地点』は、勝敗や大義といった言葉が上滑りしていくその手前で、戦場に立つ一人ひとりの人間へと執拗に目を凝らし続ける。それは、記録されなければ忘れ去られてしまう現実を、確かに世界へ繋ぎ止めるための営みだ。9月4日(金)、日本公開。この2000メートルを、ぜひ劇場で自らの足で歩いてみてほしい。
