映画『聖なる鹿殺し キリング・オブ・ア・セイクリッド・ディア』(2017)を紹介&解説。
映画『聖なる鹿殺し キリング・オブ・ア・セイクリッド・ディア』概要
映画『聖なる鹿殺し キリング・オブ・ア・セイクリッド・ディア』は、『ロブスター』のヨルゴス・ランティモス監督が、成功した心臓外科医と謎めいた少年の関係から崩壊していく家族を描いた心理スリラー。医学では説明できない現象と逃れられない選択を通して、罪、復讐、責任、犠牲を冷徹に問いかける。主演はコリン・ファレル、共演にニコール・キッドマン、バリー・コーガンら。第70回カンヌ国際映画祭では、ランティモスとエフティミス・フィリップが脚本賞を受賞した。
作品情報
| 日本版タイトル | 『聖なる鹿殺し キリング・オブ・ア・セイクリッド・ディア』 |
|---|---|
| 原題 | The Killing of a Sacred Deer |
| 製作年 | 2017年 |
| 本国公開日 | 2017年11月3日(イギリス/アイルランド) |
| 日本公開日 | 2018年3月3日 |
| ジャンル | 心理スリラー/ホラー/ドラマ |
| 製作国 | アイルランド/イギリス |
| 原作 | 無 |
| 上映時間 | 121分 |
| 監督 | ヨルゴス・ランティモス |
|---|---|
| 脚本 | ヨルゴス・ランティモス/エフティミス・フィリップ |
| 製作 | エド・ギニー/ヨルゴス・ランティモス |
| 製作総指揮 | アンドリュー・ロウ/ダニエル・バトセック/サム・ラヴェンダー/デヴィッド・コッセ/ニッキー・ハッティング/アミット・パンディヤ/アン・シーハン/ピーター・ワトソン/マリー=ガブリエル・スチュワート |
| 撮影 | ティミオス・バカタキス |
| 編集 | ヨルゴス・マブロプサリディス |
| 作曲 | なし(クラシック音楽などの既成楽曲を使用) |
| 出演 | コリン・ファレル/ニコール・キッドマン/バリー・コーガン/ラフィー・キャシディ/サニー・スリッチ/アリシア・シルヴァーストーン/ビル・キャンプ |
| 製作会社 | エレメント・ピクチャーズ/フィルム4/ニュー・スパルタ・フィルムズ/ハンウェイ・フィルムズ/リンプ/アイルランド映画委員会 |
| 配給 | カーゾン(イギリス・アイルランド)/A24(アメリカ)/ファインフィルムズ(日本) |
あらすじ
心臓外科医として成功を収めるスティーブンは、眼科医の妻アナ、美しく健康な2人の子どもと共に、郊外の豪邸で不自由のない生活を送っていた。一方で彼は、父親を亡くした16歳の少年マーティンとも密かに交流し、腕時計を贈るなど何かと気にかけていた。
やがてスティーブンはマーティンを自宅へ招き、家族に紹介する。しかし、それを境に子どもたちの身体に医学では説明できない異変が発生。スティーブンの過去に関係するマーティンの目的が明らかになる中、家族を救うための残酷な選択を迫られる。
主な登場人物(キャスト)
スティーブン・マーフィー(コリン・ファレル):社会的な地位と裕福な家庭を手にした心臓外科医。父親を亡くしたマーティンと交流しているが、その裏には家族にも明かしていない過去がある。
アナ・マーフィー(ニコール・キッドマン):スティーブンの妻で、自身も眼科医として働いている。夫や子どもたちに起こった異変を冷静に調べようとするが、次第に家族の隠された問題と向き合うことになる。
マーティン(バリー・コーガン):父親を亡くし、母親と暮らしている16歳の少年。最初は礼儀正しく振る舞うものの、スティーブンの家庭へ入り込むにつれて、その異様な目的が浮かび上がっていく。
キム・マーフィー(ラフィー・キャシディ):スティーブンとアナの14歳の娘。聖歌隊に所属し、音楽の才能を持つ。家族に紹介されたマーティンへ次第に惹かれていく。
ボブ・マーフィー(サニー・スリッチ):スティーブンとアナの息子。父親から髪を切るよう注意されながらも、自分の長い髪を気に入っている。家族の中で最初に原因不明の異変に襲われる。
マーティンの母(アリシア・シルヴァーストーン):亡くなった夫に代わって、ひとりでマーティンを育てている女性。自宅を訪れたスティーブンに、積極的な関心を示す。
マシュー(ビル・キャンプ):スティーブンと共に働く麻酔科医。マーティンの父親が死亡した手術について、重要な事情を知る人物。
作品の魅力解説
現代の家庭に持ち込まれる“神話のルール”
本作の題名は、エウリピデスによる古代ギリシャ悲劇『アウリスのイピゲネイア』を想起させる。同作では、聖なる鹿を殺したとされるアガメムノンが、その代償として娘イピゲネイアを犠牲にするよう迫られる。
ただし、ランティモス監督によれば、本作は最初から神話を翻案して書かれた作品ではない。脚本を作る過程で古代悲劇との類似に気づき、意識的にその関係を組み込んだという。罪を犯した父親が、自分ではなく家族を犠牲にするよう求められる構造を通して、古代から現在まで答えの出ていない罪と責任の問題を突きつけている。
理由ではなく“決められた結果”が支配する恐怖
物語は終始淡々と展開し、不可解な現象も「そうなることが決まっている」と言わんばかりに進行する。登場人物たちも超自然的な現象の原理を追究し続けるのではなく、次第に与えられた規則を受け入れ、その中で行動するようになる。
そこには、神話や聖書の物語にも通じる「こう定められたから、こうなる」という絶対的な因果がある。現実的な病院や裕福な家庭を舞台に、この古代的な論理をそのまま適用することで、強烈な違和感と不快感が生み出されている。
整然とした映像と音楽が作る逃げ場のない世界
広く清潔な病院、整えられた豪邸、左右のバランスを意識した構図、人物を見下ろすように移動するカメラ。映像は常に美しく秩序立っているが、その秩序こそが登場人物を逃げ場のない運命へ追い込んでいく。
不安を煽る音楽も、単純な不協和音を連発するのではなく、クラシック音楽や宗教音楽を用いて荘厳さと不穏さを同居させている。起こる出来事はあまりにも理不尽でありながら、作品全体には奇妙なほど整然とした雰囲気が保たれている。その“規則正しい悪夢”のような感覚が、本作独自の恐怖を形作っている。
わずかな“ズレ”から始まる家族の崩壊
マーティンは、圧倒的な暴力や派手な超能力を見せつけて家庭を破壊する人物ではない。礼儀正しい少年として現れ、会話や行動に小さなズレを持ち込みながら、スティーブンの世界を少しずつ歪ませていく。
そのわずかな歪みが、罪悪感、自己保身、夫婦間の疑念、子どもたちの生存競争を引き起こし、最終的には家族全体の崩壊へつながっていく。1つ1つは小さな反応でありながら、組み合わさることで取り返しのつかない結果を生む、壮大な化学反応のような構成が見どころとなる。
無感情な演技があぶり出す人間の醜さ
登場人物たちは、異常な状況に直面しても感情を爆発させることが少なく、事務的な口調で欲望や身体、家族の生死について語る。コリン・ファレルやニコール・キッドマンの抑制された演技に対し、バリー・コーガンは平凡さと異様さが共存するマーティンを演じ、何を考えているのか分からない不気味さを生み出している。
生への執着や性への関心は、人間や生き物にとって本来ごく自然なものだ。しかし、本作が作り上げた違和感の中では、そうした当然の欲求さえも“醜く這いずるもの”のように見えてくる。極限状態で露呈する自己保身を、ランティモス監督は感情的に断罪するのではなく、冷たい観察対象として映し出している。
正義、悪魔の試練、人間の復讐が重なる物語
マーティンがもたらすものは、捉え方によっては罪に対する規則正しい制裁であり、悪魔が課す残酷な試練でもあり、父親を奪われた人間の憎悪から生まれた復讐でもある。本作は超自然的な現象の正体や仕組みを説明せず、マーティンが神なのか、悪魔なのか、呪いを操る人間なのかという答えも提示しない。
だからこそ、観客は「誰に罪があるのか」「犠牲によって本当に均衡は回復するのか」という問題と向き合わされる。不可解な現象を説明する映画ではなく、説明できない規則へ放り込まれた人間の反応を見つめる映画であるため、その現実離れした現実描写を楽しめるかどうかで、好みが大きく分かれる作品でもある。
ライター/エディター/映画インスタグラマー。2019年に早稲田大学法学部を卒業。東京都職員として国際業務等を経験後、ライター業に転身。各種SNS(Instagram・X)やYouTubeチャンネル「cula 見て聞く映画マガジン(旧:アルテミシネマ)」においても映画や海外ドラマ、音楽といったカルチャーに関する情報レビューを発信している。
