『グルスポングの奇跡』マリア・フレデリクソン監督にインタビュー。
スウェーデンの小さな町で、姉妹はかつて自ら命を絶った姉に瓜二つの女性と出会う——。まるで奇跡のようなその邂逅を発端に、信仰、血縁、そして一人の女性の死の真相をめぐって、家族の物語は誰も予想しなかった方向へと転がっていく。まさに“奇跡”であり、“奇跡のその先”をも描きあげるドキュメンタリー映画『グルスポングの奇跡』が、9月4日(金)より日本公開中だ。culaは来日したマリア・フレデリクソン監督に単独インタビューを行い、本作の撮影経験と、本作に思うことを聞いた。(取材・文・写真:cula編集長 ヨダセア)
『グルスポングの奇跡』マリア・フレデリクソン監督インタビュー
まず、この映画を撮ろうと思った一番の理由を教えてください。マイとカーリから話を聞いたとき、単に「すごい出来事だ」と思っただけではなく、「自分が映画にしたい」と決断した決定的なものは何だったのでしょうか。
マリア・フレデリクソン監督(以下、フレデリクソン):話はまず、この企画について私に電話がかかってきたところから始まるんだけど、それは、彼女たちが最初にスウェーデンの放送局、SVTに連絡したからなんだ。誰かに「姉妹と遭遇したなんて、それは奇跡だ、神の奇跡だよ。この話は誰かが伝えなきゃいけない」って言われたらしくてさ。私は前に高齢の女性たちを撮った映画を作っていたから、SVTが彼女たちに私の番号を教えたってわけ。
フレデリクソン:私のところに電話が来たタイミングもすごく良かったんだよ。ちょうど前作を撮り終えたところで、次に何をやろうか決まっていなかったから、自分のところに巡ってくるものなら何でも受け入れよう、っていう状態だったんだ。それで、とにかくグルスポングに行って彼女たちに会うことにした。
フレデリクソン:もちろん、実際に会って話を聞いたときは引き込まれたけど、「よし、これから長編映画を撮るぞ」という感じではなかった。「この女性たち、興味をひかれるな」くらいの感覚だったんだ。最初は3人全員と話をした。コーヒーを飲みながら、彼女たちが例の話を聞かせてくれてね。それから、その3人だけと部屋に残らせてほしいって頼んで、他の人たちにはコーヒーでも飲みに行ってもらった。そこで彼女たちの話を聞いて、3人ともすごく話し上手だなって感じたんだ。しかも、この話に、自分たちの身に起きたことに、すごく入れ込んでいた。
フレデリクソン:ただ、3人はそれぞれ少し違ってもいた。カーリとマイは信仰を持っていて、特にカーリがそうだった。彼女はこれは神の奇跡だって強く信じていたんだ。一方でオーウラグは神をまったく信じていない。そこは最初からはっきりしていたよ。だから、この女性たちには何か起こるかもしれない、何かは分からないけど、とにかく何かが、って感じたんだ。でも同時に、映画にはならないかもしれないとも思った。だって話はもう起きてしまったことだからね。彼女たちは互いを見つけて、幸せで、姉妹だと分かっている。はい、おしまい、って。
フレデリクソン:だから、映画になるのかならないのか、どうだろうって感じだった。でも、彼女たちのことが気になりすぎて、撮影を始めずにはいられなかったんだ。それで、ほんのわずかだけど資金を得て、撮影監督を雇えることになって、オーウラグのところに行って彼女を撮った。そうしたら、ここからまだ何か出てくるぞって感じ始めてね。他にやることもなかったし、取り組んでいる別の映画もなかったから、とにかく始めてみた。そうしたら、どんどんのめり込んでいったんだよね。
「奇跡(Miracle)」という言葉は、本来「理解が追いつかないほどの出来事」くらいの意味で、本来そこにプラスもマイナスもないはずです。それなのに、人はどこかでそこに前向きな意味を、あるいは希望を見出してしまう。今回マイも、まさにこの「奇跡」にすがったように思います。しかし、その先に待っていたのはビターな結末でしたね。観客もきっと同じ気持ちを味わったはずで、私自身、もう少しほっこりする話だと思って観始めました……(笑)。そういう意味でも、このタイトルは非常に印象的でした。このタイトルは本当に印象的でしたが、どのタイミングで決定したのでしょうか。
フレデリクソン:うん、最初はただ、最初の申請書に書き留めただけのタイトルだったんだ。作業を始めるのに放送局から少し資金をもらう必要があってね。カーリが「私たちに起きたことは奇跡だ」って言っていたし、舞台がグルスポングだったから、そのまま「グルスポングの奇跡(The Gullspång Miracle)」って書いたんだ。でも最初はあくまで仮のタイトルのつもりだった。
フレデリクソン:だから制作を進めるなかで、他のタイトルもいろいろ考えたよ。「あ、これはもう前向きな奇跡じゃないな」って感じ始めたときにね。でも、カーリにとっては、話がかなり暗い方向に転がっても、やっぱりこれは“奇跡”のままだったんだ。リータが自殺したんじゃなかったって知ることができたからね。彼女にとってはそっちのほうが、むしろ大きな奇跡だった。
フレデリクソン:カーリはいつも物事を前向きに見ようとする人でね。自分の身に何が起きても、それを何か前向きなものに変えようとするんだ。だから、オーウラグのことや彼女たちの関係やら、いろいろすごく悲しいことがあっても、「私にとってはこれはやっぱり奇跡なんだ」って感じていた。それで、よし、これをタイトルにしよう、と決めたんだ。たとえそれが、彼女たちが最初に信じていた奇跡とは違うものだとしてもね。
実際にマイ、カーリ、オーウラグの3人に初めて会ったとき、どんな印象を受けましたか。映画を撮る前に想像していた人物像と、実際に会った印象に違いはありましたか。
フレデリクソン:特に何も!実際に会う前は、カーリとマイとは電話で話しただけで、オーウラグとはまだ話していなかったんだ。だから、すごくオープンな気持ちでそこに行った。頭の中にあまりイメージを持ち込まないようにしたんだ。彼女たちが何か話してくれることは分かっていたし、彼女たちにとってとても大きな出来事を経験したっていうことも分かっていた。ふたりの出会い方も本当に驚くべきものだと思っていたよ。だから、彼女たちのことが気になってはいたんだけど、会う前はできるだけまっさらな状態でいようとしたんだ。
フレデリクソン:それで実際に会ってみたら、みんなすごく歓迎してくれて、自分たちの話を聞かせたいっていう気持ちにあふれていた。それで、もっと彼女たちのことを知りたいって感じたんだよね。
序盤のマイとカーリには、ふたりで笑ったり冗談を言ったりする、とても和やかな時間もあります。実際におふたりと撮影している時間はどのような雰囲気でしたか。
フレデリクソン:映画で見てもらった通りだよ。ふたりともすごく自然で、ありのままの彼女たちなんだ。でも、撮影に行くたびに、時間のほとんどは撮影しないで過ごしていた。まず自分たちの生活のことを話してね。いつも私と撮影のピア、ふたりだけで撮影している。録音技師もいないし、他には誰もいない。いつだって私たちふたりだけだよ。
フレデリクソン:まずはコーヒーを飲んで、前に会ってから何があったかを話すところから始める。子どものこととか、まあ、その辺の日常のことをね。それで、どこかのタイミングで「よし、カメラを回そう」とか「インタビューをやろう」って言う感じ。あるいは、何かが起こると分かっているとき、たとえばオーウラグが北部の農場に来るってときには、その前日に現地に行って準備をして、まず兄弟と話をした。みんなが、私たちに撮られることに居心地の悪さを感じないようにするためにね。
フレデリクソン:彼女たちも、カメラが回っていることを完全に忘れちゃうって言ってたよ。私たちがそばにいるのにすっかり慣れているから、カメラがついているかどうかなんて分からないし、正直気にもしていない。私も彼女たちとちゃんと話しているんだ。「基本的には全部撮るし、カメラは止めない。でも、あとで居心地が悪いと感じるものがあったら、これは映画に入れないでって言ってくれればいい」ってね。だから私たちの関係としては、カメラはずっと回っていていいんだけど、彼女たちも、自分たちがダメだと言えばそれは映画に入らないって信頼してくれているんだ。
この真相を追う企画によって、家族の関係自体が変化してしまったのではないか、など、怖かったり葛藤したりはしましたか。「この映画を撮っているから、この会話や対立が起きているのではないか」と怖くなったことはありましたか。
フレデリクソン:もちろん、カメラは意識しないとは言っても透明ではないからね……私たちはそこにいるわけで、ドキュメンタリーを作るときはいつも、カメラがなかったら何が起きていたかなんて分かりようがない。ドキュメンタリー映画を作るっていうのはそういうものだと思う。でも、私は彼女たちが互いに対しても、その場その場の状況に対してもすごく正直だと感じていたし、私たちがそこにいようがいまいが、同じことが起きていたと思うよ。
フレデリクソン:それに、彼女たちはみんな、私にそこにいてほしいって本当に言ってくれたし、私がいることを喜んでくれた。というのも、カメラが、いわば起きていることの証人みたいな存在になったから。この出来事は私にとって不思議だっただけじゃなく、彼女たちにとってもすごく奇妙なことだったんだ。
フレデリクソン:彼女たちはただ自分の人生を生きている女性たちで、子どもや孫がいて、編み物をしたり、友達と出かけたり、普通のことをして暮らしている。そこにこんなことが起きたわけで、それは彼女たちにとって普通のことじゃなかった。だから、何が起きているのかをカメラがそこで見ていてくれるのはいいことだって感じていた。そのほうが彼女たちにとっても気が楽だったみたいだね。
フレデリクソン:だから、撮影企画が原因で何か変化したかというと……そうは思わない。ただ、こういう不思議なことが次々と起きるなかで、カメラは彼女たちの支えになっていたんだと思う。
カメラは淡々と、起きることを見つめるのみ、ですね。
フレデリクソン:そういうこと!……あ、でもひとつ、私がそこにいたことで起きたことがあったよ。彼女たちが、「リータに何が起きたのかを突き止めてほしい」と私に頼んできたことだね。
フレデリクソン:最初はオーウラグが、リータは自殺なんかしていない、といったことを言い出して。それから、カーリと、それにリータの娘も、「彼女に実際に何が起きたのか、突き止めてもらえない?」って私に頼んできたんだ。それで、リータの遺体を実際に発見した男性を、私が見つけることになった。これは、私がカメラを持ってそこにいなかったら起きなかったことだよ。彼を見つけて、そのことを彼女たちに伝えたのは私だからね。でもそれは、彼女たちがはっきりと“そうしてほしい”と頼んできたからなんだ。
関係が壊れていくにつれて、彼女たちはそれぞれが全く異なる“自分の真実”を監督に語るようになったと思います。そのとき、誰の味方にもならず撮影を続けることはどれほど難しかったのでしょうか。
フレデリクソン:それは本当に難しかったよ。どちらの味方にもならないっていうのが、すごく、すごく大切だったんだ。でも、彼女たちが私に味方になってほしいのだろうと思うことも、ときにはあったよ。オーウラグはある時期、すごく孤独を感じていて、私ももちろん彼女を慰めたかった。でも同時に、カーリとマイの話に耳を傾けて、彼女たちの考え方を理解することも大事だった。だから、これは制作を通していちばん大きな課題のひとつだったね。
フレデリクソン:ただ、彼女たちもそれが私の役割だって分かっていた。だから、私がどちらの味方もしないって信頼してくれていたし、私も実際にどちらにも味方しなかった。とはいえ、いつも簡単だったわけじゃないよ。
リータは映画に直接登場できない人物なのに、物語が進むほど存在感が大きくなっていきましたね。亡くなった人について、本人が反論も同意もできない状態で映画を作ることについて、監督や出演者のみなさんはどのような考えを持っていたのでしょうか。
フレデリクソン:それについては、かなり悩んだよ。すごく、本当に難しいことだった。だって、まさにあなたが言った通り、リータは「私は映画に出たい」とか「映画ポスターに載りたい」なんて言えないわけだからね。だから、本作を彼女の敬意のある形でやることには、とても大きな責任があると感じていた。実際、家族が入れたくないと言ったことで、映画から外したこともあるんだ。それを入れたからと言って大きな影響はない、細かい部分だったんだけどね。
フレデリクソン:リータの姉妹や娘である彼女たちの声に耳を傾けるようにした。何は作品にしてよくて、本人ならどこまでなら受け入れてくれただろうか、っていうことを判断しなければならなかったのは彼女たちだからね。編集中も含めてたくさん議論したよ。ほとんどは娘のトリーネとで、あと息子ともね。でも、母親のことにいちばん敏感だったのはトリーネなんだ。
フレデリクソン:それに、実は霊媒師のところにも行ったんだ。導きがほしくてね。何が正しくて何が間違っているのか、すごく混乱していたからさ。リータは自分の死に何が起きたのかを掘り下げてほしいのか、それとも掘り下げてほしくないのか……ってね。
フレデリクソン:それで、あるタイミングで……ランプが落ちてきたときがあって、あれはすごく怖い瞬間だったな。そのとき、もう十分だ、これ以上は進むべきじゃないって感じたんだ。もう明らかだろう、って。それに、そのときトリーネも「私はもうこれで終わりにしたい。母は自然死じゃなかったと思う」って言ったし、カーリとマイも「私たちはもういい。これ以上は知りたくない」って言った。だからもちろん、私はそれ以上進まなかった。それを決めるのは私じゃないからね。彼女たちの人生で、彼女たちの姉妹で、彼女たちの物語なんだ。だから、彼女たちの声と、彼女たちが受け入れられる範囲に耳を傾けようとした。
フレデリクソン:そして最終的には、姉妹についてのこの物語が映画として世に出たことを、彼女たちはとても喜んでくれている。それに、姉妹の死について今はより多くのことを知れて、感謝もしてくれているんだ。だから、私たちが見せているものについて、私も納得している。彼女たちが満足してくれているからね。そのことを私も嬉しく思っているよ。
フレデリクソン:……ちょっと長い答えになってしまったけど、これはこの映画を作るうえでいちばんの難題のひとつだったからね。
この映画を観ていると、「血がつながっていること」と「家族であること」は必ずしも同じではないように感じます。監督にとって、そもそも“家族になる”とはどういうことだと思いますか。
フレデリクソン:そうだな……私が思うのは、もし自分の家族を家族だと思いたくないなら、無理にその人たちを家族と呼ばされるべきじゃない、ってこと。自分にとって大切な人たちを選べるべきで、その人たちが自分の家族になり得るんだ。
フレデリクソン:だから、血のつながりが「これは家族だ、これは家族じゃない」って決める唯一のものであるべきじゃないと思う。自分で選べるべきだし、家族にならないっていう選択もできるべきだよ。
DNA検査は、本来なら血縁関係について明確な答えを与えてくれる科学的な手段のはずです。しかしこの映画では、むしろ結果が出るたびに家族の「真実」が揺らいでいきますね。撮影を通して、DNA検査が人のアイデンティティや家族関係に与える力について、どう感じましたか。
フレデリクソン:最初のDNA検査をやったときは、問題なかったんだ。「よし、いい確認だ。これで彼女たちが家族だって分かった」って感じでね!それで、2回目をやろうって話になったときも、「オーウラグが2回目をやりたい?いいよ、どうぞどうぞ。家族だってことをもう一度証明できるね」くらいの感覚だった。大したことだとは思っていなかった。ただ彼女がやりたがっているだけだ、ってね。
フレデリクソン:そうしたら結果が出て、「ええ、これじゃ映画が成立しない。私の“奇跡”はどこに行ったんだ?」って思ったよ。私は科学を信じているから、すごくもどかしかった。科学を信じる家庭で育ったし、DNA検査をすればそれが真実だって分かっているつもりだった。それなのにこんなことが起きて、世界がすごく不安定なものに感じられたよ。何を信じられて、何を信じられないのか、ってね。
フレデリクソン:最初のうちは、その結果のあと、はっきりした答えがほしいと思った。三回目の検査はできないのか、とかね。でも、それは私が決めることじゃなかった。彼女たちはある意味「いや、もういい、これで納得している」って決めていたから。カーリとマイは、それでも自分たちは姉妹だと信じていて、検査の結果を信じないっていう選択をした。オーウラグは2回目の検査に大満足で、「私たちは家族じゃない」って言っていた。だから、それは私に決められることじゃなくて、受け入れがたくても私は受け入れるしかなかったんだ。
フレデリクソン:人生でときどきあることだよね。たとえ答えを求めても、すべての答えが手に入るわけじゃない。どんなことでもそうだけど、答えがそこにないこともあって、それを受け入れて、それと共に生きていくしかないんだ。
2回目の検査についての監督ご自身のお考えを話すのは、難しいですよね……?
フレデリクソン:うん、難しいね、すごく(笑)
オーウラグは高齢になって突然、自分が誰なのか、自分の家族は誰なのかを根底から揺さぶられます。アイデンティティとは、自分の中に最初からあるものなのでしょうか。それとも、記憶や家族との関係から私たちが作っていくものなのでしょうか。
フレデリクソン:オーウラグにとっては、すごくつらかったと思う。80歳を超えていて、自分のアイデンティティ全部を奪われるようなものだったから。もちろん、彼女は自分に起きたこと、記憶、育ち、そして生きてきた人生をもとにして、今の彼女であるわけで。それなのに、自分について信じてきたことすべてが、もう真実じゃなくなった。だから、人生のすごく、すごく遅い段階で新しいアイデンティティを見つけなきゃいけなくて、それは本当に難しいことだった。まあ、遅い段階でなくとも誰でも難しいだろうね。
フレデリクソン:しかも彼女は、自分から生物学的な家族を探していたわけじゃなかった。ただ、育った家族の中でずっと自分は違うって感じていて、でもなぜかは分からなかった。何かが欠けている、何かがしっくりこないって感じていたけど、理解できなかったという状況なんだ。
フレデリクソン:だから最初彼女は「あなたはこの家族の一員なんだ、だからずっと自分を違うと感じてきたんだ」って言われて、ほっとしていたようでもあった。でも、そうしたら今度はこの家族にもしっくりこなかった。つまり、古いアイデンティティも新しいアイデンティティも、彼女にとってはどこか違和感があったんだ。
フレデリクソン:あなたの質問に答えるなら、私はアイデンティティは「築き上げられていくもの」だと思う。「最初からそこにあるもの」じゃなくて、人生で自分に起きること次第で作られていくものなんだ。
フレデリクソン:それで最終的に、オーウラグは決断した。あるとき彼女がこう言ったのを覚えているよ。「私は私。血なんてどうでもいい。誰が自分の親で、誰がそうじゃないかなんて気にしない。私はやっぱりオーウラグで、何があろうと私は私なんだ。だって、どうせすべての答えは手に入らないんだから。みんなもう亡くなっていて、誰にも聞けないし、これ以上検査もしない。もう何もしない。私はただ、私なんだ」ってね。彼女はある意味、それで落ち着いたんだと思う。
最後の電話には驚きましたけどね!あの電話を受けてみていかがでしたか。
フレデリクソン:そう、私も驚いたよ。あれも難しい瞬間というか……彼女にはまた驚かされたんだ。撮影していた4年間、ポストプロダクションを入れれば5年間、彼女たちはみんな、何度も私を驚かせてくれた。本当に、いつもね。
フレデリクソン:私の狙いは、観客にも私と同じように感じてもらうことだった。「この映画はこういう話だ」と思ったら、180度方向が変わって、また別の話になって、また展開して……。この“幸せな奇跡”が、だんだん暗いものに変わっていく。だから、あの最後の電話も、私が受けたのと同じように観客にも受け取ってほしかった。最後のサプライズとしてね。人生には絶えず新しい展開があって、決して終わらない。何も予想できないんだよ。
フレデリクソン:それに、オーウラグにとってあの電話は、「自分の家族は自分で選ぶ」と表現するひとつの方法でもあったんだと思う。
映画が終わっても、今も(彼女たちの人生という)物語は終わっていませんよね。4〜5年という長い時間この家族と関わったあと、撮影が終わったときに“映画の登場人物”ではなくなった彼女たちとの距離感をどう戻したのでしょうか。今も交流はありますか。
フレデリクソン:5年間ずっと、オーウラグ、カーリ、マイとは毎週話していたんだ。。彼女たちはしょっちゅう互いに話しているんだけど、私も少なくとも一人ひとりと毎週1時間は話していた。それを5年間だよ。
フレデリクソン:だから、そこから別の関係に落ち着いていくには、やっぱり少し時間がかかるよ。映画が公開されたときはその話でもちきりだったし、彼女たちもプレミアや上映会、Q&Aなんかに来てくれた。だから、その時期もたくさん連絡を取り合っていたよ。
フレデリクソン:今も話しているけど、毎週ってわけではなくなったね。彼女たちにとっても、普通の生活に戻って、映画監督がいつもそばにいる状態じゃなくなるのはいいことだよ。それでも、カーリとはつい3日前に話したし、オーウラグとも少し前に話した。
フレデリクソン:でも、今でもみんなととても近い関係ではあるよ。マイなんて、数日前にメッセージをくれてね。「私も東京に行きたい!」ってさ(笑)。映画がここに来ていることを、みんなすごく喜んでくれているんだ。
フレデリクソン:とはいえ、あれだけ長い時間を一緒に過ごした人たちと、そこから少しずつ違う関係になっていくのは、やっぱり難しいことだね。カーリとマイは編み物をよくやっていて、今でも私の子どもたちや私のために編んでくれるんだ。クリスマスに編み物が届いたりするよ!
この映画を作る前と作った後で、監督自身の“家族”や“自分は何者なのか”という考え方に、何か変化はありましたか?
フレデリクソン:自分の家族関係についてはそうでもないかな。自分が何者かについては、わりと確信を持っているからね。でも、この映画のおかげでもちろん、“家族”というテーマと向き合わなければならなかったし、「血ってそんなに大事なものなのか、そうじゃないのか」「生まれか育ちか、何が人をその人たらしめるのか」そういうことをより深く考えるようになった。だから、そういう問いについてはずいぶん考えたよ。
フレデリクソン:自分を今の自分にしたのは何だろう、って考えて、両親のことを思ったりもした。私の父は、この映画を作っている最中に亡くなったんだ。制作中、父とは家族についてたくさん話をしたし、映画のことで行き詰まったとき、父は強い支えになってくれた。だから、この映画の最中に自分の家族が変わっていったことは、もちろん私にも影響を与えたよ。そういう問いについては本当にたくさん考えたけど、自分が何者かという点では、前も後も変わらず同じだと思う。
フレデリクソン:でも、別の面でこの映画は私を変えてくれたよ。「なぜ物事は起きるのか」といった問いや、サイン(兆候)を見ることに対して、より開かれた人間にしてくれた。カーリとマイは、あらゆるものにサインを見出す人たちでね。彼女たちとあれだけ長く一緒にいたことで、私も彼女たちと同じように物事を見るようになったんだ。誰かを撮るときは、その人の世界の中に入り込もうとする。撮る相手のことを理解したいからね。そうすると当然、それは自分にも影響してくる。だから、この映画は私を、宇宙に対してより開かれた存在にしてくれたんだと思う。
この映画には悲しみや家族の対立だけでなく、笑顔になれるような瞬間もたくさんあります。一方、後半は犯罪ドキュメンタリーやスリラーのようにもなっていきます。この穏やかさと不穏さのバランスは、映像作品としての編集段階で、カットや音楽などをどのように演出したのでしょうか。
フレデリクソン:私にとってユーモアは、自分のドキュメンタリー映画にとって大事な要素なんだ。笑うことも大切だと思う。それも人生の一部だからね。
フレデリクソン:ドキュメンタリー映画の分野では、ユーモアを使うのを怖がる監督もいると思う。これは重要なテーマなんだ、とか、観客に何かを学んでもらわなきゃ、って考えてね。でも私にとっては、ユーモアも人の心に届けるための一つの方法なんだ。それに、彼女たちは本当に面白い人たちでね。マイなんて、初めて映画を観たとき、自分自身を見てすごく笑っていたよ。
フレデリクソン:もちろん、正しいバランスを見つけることは大事だけどね。全部が笑いっていうのは違う。だって実際そうじゃないからね、悲しいこともいろいろあるし。でも私は、実際にどうだったか、その現実にできるだけ忠実でありたいんだ。「ときには楽しいこともあった。すべてが悲しいわけじゃなかった」という全体像をちゃんと捉えることが大事だと思う。
マイとカーリは信仰によって出来事に意味を見いだし、オーウラグは自分を理性的な人間だと考えているように思います。しかし映画では、その境界がだんだん曖昧になっていくところもあるように思いました。撮影を通して、“信じること”と“事実を知ること”について考え方は変わりましたか。
フレデリクソン:うん、そうだね。すごく変わったよ。
フレデリクソン:というのも、最初に彼女たちに会ったときは、彼女たちの言うことを100パーセント信じていたんだ。今でも、彼女たち全員のことを信じている。真実って複雑なものだと思う。彼女たちにとっては……つまり、編集を確定させる前に彼女たちに映画を試写したんだ。「こういう映画になっていますが大丈夫ですか?」って見せたくてね。だから、カーリとマイに一回、オーウラグに別で一回、他の人たちにも一回、試写をした。そうしたらカーリとマイは「これこそまさに真実そのもので、起きた通りだし、完全に私たちの視点から描かれている。だからこの映画が大好き。でもオーウラグはきっと気に入らないでしょうね」って言ったんだ。
フレデリクソン:それでオーウラグに見せてみたら、彼女は「これは100パーセント真実で、完全に私の視点から描かれている。カーリとマイはきっとこれを気に入らないよ」って言った。同じ映画なのに、それぞれが自分の視点から見ていたんだよ。それって本当にすばらしいことだと思う。自分が何者かによって、映画の見え方も受け取り方も変わってくる。観客も、それぞれ自分が何者かによって違う受け取り方をしていると思う。実際「私はこう見えた」という内容はそれぞれ違うし、それこそがあるべき姿なんだと思うんだ。
最後に日本の皆さんにひとことメッセージをお願いします!
フレデリクソン:こんにちは、『グルスポングの奇跡』の監督、マリア・フレデリクソンです。この映画はいま日本の劇場で公開されています。ぜひこの映画を観ていただけたら嬉しいですし、観たあとには、お互いに語り合いたくなるような問いがたくさん残っていることを願っています。気に入ってもらえますように!
