是枝裕和監督が、映画『箱の中の羊』の制作秘話と作品に込めた問いを早稲田大学で語った。
第79回カンヌ国際映画祭コンペティション部門正式出品作『箱の中の羊』は、是枝裕和監督にとって日本映画では『万引き家族』以来、8年ぶりのオリジナル脚本となる最新作。息子を亡くした夫婦が、その息子の姿をしたヒューマノイドを迎え入れる“少し先の未来”を舞台に、夫婦、家族、死者と生者の関係を見つめる物語だ。
6月13日(土)、早稲田大学の人気授業「マスターズ・オブ・シネマ」に是枝監督がゲスト登壇。約250名の学生を前に、本作が生まれた背景や創作の姿勢、ヒューマノイドを通して描いた人間らしさについて語った。
是枝裕和監督、早稲田大学「マスターズ・オブ・シネマ」に登壇
早稲田大学の「マスターズ・オブ・シネマ」は、多彩な映像制作者をゲストに招き、映画制作の現場や創作の背景を聞く人気授業。今回、映画監督であり早稲田大学客員教授でもある是枝裕和監督が登壇し、現在公開中の映画『箱の中の羊』について学生たちと向き合った。

『箱の中の羊』是枝裕和監督 ©2026フジテレビジョン・ギャガ・東宝・AOI Pro.
本作は、主演に綾瀬はるかと大悟(千鳥)を迎えたヒューマンドラマ。綾瀬は建築家の甲本音々、大悟は工務店の二代目社長・甲本健介を演じる。2人の亡き息子・翔、その姿をしたヒューマノイド役には、200名以上のオーディションから選ばれた桒木里夢が抜擢された。
また、本作は第79回カンヌ国際映画祭コンペティション部門に正式出品。是枝監督作品が同部門に選出されるのは、2023年の『怪物』以来3年ぶり、8回目となる。すでに世界184の国と地域で配給が決定しており、日本国内だけでなく海外からも注目を集めている。
カンヌ国際映画祭と、映画を作り続ける緊張感
授業の前半では、事前に学生から寄せられた質問に是枝監督が答える形で進行。最初の話題は、本作も出品されたカンヌ国際映画祭についてだった。
これまで何度もカンヌのレッドカーペットを歩いてきた是枝監督だが、「毎回作品が違うから、慣れるということはない。やはり緊張しますし、新鮮ですよ」と率直にコメント。今年のカンヌについては、日本が「カントリー・オブ・オナー」に選ばれ、日本映画が多く紹介された一方で、映画祭全体の変化も感じたという。

『箱の中の羊』是枝裕和監督 ©2026フジテレビジョン・ギャガ・東宝・AOI Pro.
是枝監督は「例年に比べると、メディアの数も半分くらいでした。それはアメリカの大作映画がなかったからかもしれないし、物価の高騰という事情もあるのかもしれない。そういう意味では、いまカンヌは一つの過渡期にあるのかもしれませんね」と振り返った。
一方、「一番好きな映画祭」を聞かれると、「サン・セバスティアン国際映画祭ですね」と即答。理由について「ご飯がおいしいから」と明かし、会場を和ませる場面もあった。
編集は「渡しません」 是枝監督が語った制作スタイル
映画づくりのプロセスに関する質問では、是枝監督の制作スタイルにも話が及んだ。学生から「編集だけは絶対に人に渡さないタイプ?」と問われると、監督は「渡しません」と即答した。
その理由について、是枝監督は「脚本を書き、演出をして、それを編集する。それはすべてが繋がっているから手放せない。特に編集は最終的に作品が終えるところなので、そこはどうしても手放せないですね」と説明。脚本、演出、編集を一続きの行為として捉えていることを明かした。
一方で、脚本については『怪物』で坂元裕二が脚本を手がけた経験にも触れ、「自分には書けないものを書いてもらうのは本当に楽しい作業」と語った。自らの作家性を保ちながらも、他者の言葉によって作品が開かれていくことへの喜びもにじませた。

『箱の中の羊』是枝裕和監督 ©2026フジテレビジョン・ギャガ・東宝・AOI Pro.
子役演出については、これまで「台本を渡さず、口伝えでセリフを伝える」方法が知られてきたが、近年は変化もあるという。是枝監督は「実は最近は台本を渡すようにしていて。やり方を変えつつあります」と明かし、『箱の中の羊』で翔を演じた桒木里夢については、現場で綾瀬や大悟と一緒に掴んでいく柔軟さがあったと振り返った。
鎌倉という舞台、大悟の背中、そして『星の王子さま』
授業の中盤では、『箱の中の羊』の具体的な制作秘話へと話題が移った。是枝作品でしばしば印象的に描かれてきた「鎌倉」について問われると、監督は「鎌倉になったのはたまたまですよ」と説明。最初から舞台を限定していたわけではなく、建築家が設計した家を探す中で鎌倉のロケーションに出会ったという。
ただし、綾瀬はるかと鎌倉という組み合わせには、是枝監督の過去作『海街Diary』を連想させる面もあった。監督はその点に迷いもあったとしながら、実際に現地を訪れたことで「もうここしかないか」という感覚になったと明かした。
また、夫・健介を演じた大悟については、演技だけでなく身体の佇まいにも強く惹かれたという。是枝監督は、大悟の歩く姿や背中に触れながら「これはずっと見てられるなと思って」とコメント。踏切のシーンで翔の後ろを歩く姿にも、人物の内面がにじむような手応えがあったことを語った。
さらに本作では、母親が読み聞かせる絵本として『星の王子さま』が登場する。学生からは、『星の王子さま』が“目に見えない大切なものを見る想像力”を肯定する一方、本作は“見たいものを見てしまう危うさ”を描いているのではないか、という鋭い考察が寄せられた。
これに対し、是枝監督は「まさに意識しました」と応答。ただし、最初から明確にテーマが見えていたわけではなく、書き進める中で『星の王子さま』やタイトルが作品の方向性と結びついていったという。監督は「そうやって徐々に作品の向かう先とフォーカスが合っていく感じが、映画づくりの楽しいところですね」と語った。
ヒューマノイドを描くことで見えてくる「人間らしさ」
『箱の中の羊』は、亡くなった息子の姿をしたヒューマノイドを迎え入れる夫婦の物語だ。しかし是枝監督が見つめているのは、ヒューマノイドそのものというよりも、それを必要としてしまう人間の感情である。
学生から、人間の姿をしたヒューマノイドを登場させた意図を問われると、是枝監督は「ヒューマノイドそのものではなく、ヒューマノイドを求めてしまう人間を描いている」と説明した。
そして「人間らしさとは何か」という問いについては、「曖昧さをどれだけ愛せるか」と言及。人間ではない存在が現れることで、逆に人間とは何か、家族とは何か、死者とともに生きるとはどういうことなのかが浮かび上がってくる。

『箱の中の羊』是枝裕和監督 ©2026フジテレビジョン・ギャガ・東宝・AOI Pro.
劇中では、ヒューマノイドの翔が「君たちは人間の過去じゃない、未来だよ」と告げられる一方で、音々からは「あなたの過去の産物」と表現される。是枝監督は「“過去の産物”という言葉も、そのままの意味で捉えてほしいわけではない」と前置きし、人間とヒューマノイド、死者と生者の境界は、人が考えるほど明確なものではないのではないかと語った。
「答えを出すことよりも、問い続けることが大事」
授業後半の質疑応答では、作品の根幹に迫る質問も相次いだ。複雑なテーマを映画として描く際に心掛けていることを問われると、是枝監督は「答えを出すことよりも、問い続けることが大事」と回答した。
自身の中にある“もやもや”と向き合い、登場人物の気持ちに寄り添いながら問いを重ねていく。是枝作品がしばしば明確な結論を急がず、観客に考える余白を残すのは、その姿勢と深く結びついている。
また、観客にどのような問いを投げかけたいと思ったのかという質問に対して、是枝監督は、撮影段階から大きな問いがはっきりあったわけではないと説明。しかし完成へ向かう過程で、「死者は誰のものなのか」という問いが次第に浮かび上がってきたという。
ラストシーンについては、夫婦が葛藤の末に子どもたちを森へ帰し、自分たちは再び家へ戻ることを選ぶ場面に触れ、「それが彼らの選んだ生き方。問いでもあり、ある意味では答えでもある」とコメントした。
『箱の中の羊』が描くのは、失われたものを取り戻そうとする物語であると同時に、失われたものとどう生き続けるのかを問う物語でもある。是枝監督の言葉は、作品が提示する“家族のかたち”を、単なる未来設定やSF的な装置ではなく、きわめて人間的な問いとして受け止める手がかりになりそうだ。
映画『箱の中の羊』作品情報
息子を亡くして2年、建築家の音々と工務店の二代目社長を務める健介の甲本夫婦は、息子・翔の姿をしたヒューマノイドを迎え入れることになる。
彼が到着した日、「おかえり」と駆け寄り喜びを隠さない音々と、戸惑いを隠せない健介。少しずつ動き始める家族の時間の中で、やがて夫婦それぞれが抱える息子の死への思いが露わになっていく。
『箱の中の羊』
出演:綾瀬はるか、大悟(千鳥)、桒木里夢、清野菜名、寛一郎、柊木陽太、角田晃広、野呂佳代、星野真里、中島歩、余貴美子、田中泯
監督・脚本・編集:是枝裕和
音楽:坂東祐大
製作:フジテレビジョン、ギャガ、東宝、AOI Pro.
制作プロダクション:AOI Pro.
配給:東宝、ギャガ
©2026フジテレビジョン・ギャガ・東宝・AOI Pro.
公式サイト:gaga.ne.jp/hakononakanohitsuji
公式X・Instagram:@Hakohitsujifilm
