【映画レビュー『マザー』】聖人ではなく、血の通った女性として――マザー・テレサ像を揺さぶる革新的宗教ドラマ

『マザー』より ©Entre Chien et Loup Sisters and Brother Mitevski REVIEWS
『マザー』より ©Entre Chien et Loup Sisters and Brother Mitevski

東京国際映画祭で上映された『マザー』を紹介&レビュー。

『マザー』概要

1948年、インド・カルカッタ。マザー・テレサがロレト修道女会を離れ、自らの修道会「神の愛の宣教者会」を立ち上げようとしていた時代の一週間を描く。信仰と現実のはざまで揺れるテレサは、自らの後継者として期待していた修道女が妊娠し、中絶を望んでいることを知る。信仰に生きる者としての理想と、女性としての現実。その狭間で精神的に追い詰められていくテレサを、『ミレニアム ドラゴン・タトゥーの女』(2009)のノオミ・ラパスが繊細かつ情熱的に演じている。

監督は、北マケドニア出身のテオナ・ストゥルガル・ミテフスカ。フェミニズムと芸術性を融合させる作風で知られる彼女が、初めて英語で撮った本作では、聖人としての神話ではなく「ひとりの女性としてのテレサ」を見つめ直している。現代的な視点から再構築された宗教ドラマとして、フェミニスト映画の新たな地平を切り開こうとする意欲作だ。​​​​​​​​​​​​​​​​

聖職者だって一人の人間

聖職者として生きる者が、最初から聖職者であったはずがない。神父も僧侶も、元を辿れば皆、一人の赤子として生まれ、少年少女として日々を重ね、人生のどこかで神に仕える道を選んだに過ぎない。つまりは、私たちと何ら変わらない一人の人間なのだ。そうであるなら、その内に葛藤が一切存在しないなどということがあり得るだろうか。ミテフスカ監督は、そうしたマザー・テレサの”人間性”を長年かけて探求し、17年という歳月を企画・製作に費やして、聖人ではなく一人の女性としての彼女を描く映画を完成させた。​​​​​​​​​​​​​​​​

聖人にしてパンクロック?

万人の「マザー」として礼節を持って尊敬される人物も、もとを辿れば私たちと同じ一人の女性に過ぎない。であるならば、彼女にもさまざまな苦悩や疑念があり、誘惑と戦い、そして普遍的な願望を抱くこともあったのではないだろうか。もしかすると、普遍的な意味での“マザー(母親)”になりたいという気持ちさえあったかもしれない。実際、彼女の手記には疑念や自己顕示欲が記されており、監督も登壇ステージで、テレサが非常に柔軟で自由な精神を持った女性であったと語っていた。

本作が秀逸なのは、そうした自由な精神を持ちながらも後世に尊敬されるようになった反逆児たる偉人の本質を、ラウドなパンクロック音楽で表現してみせた点だ。この大胆な音楽のチョイスには心底驚かされ、本作を忘れがたい一作へと昇華させている。

また、修道女たちが無邪気にボール遊びをするシーンも印象的だった。一人の女性としての彼女たちの姿を目にしたとき、「彼女たちと私たち、一体何が違うのだろう」という感覚に捉われずにはいられなかった。​​​​​​​​​​​​​​​​

ノオミ・ラパスの繊細な演技

ノオミ・ラパスは、テレサの葛藤を非常に抑制の効いた演技で表現し、繊細な表情の変化だけで観客を引き込むいくつものカットを生み出した。

マザー・テレサに対する新たな着眼点と人間味あふれる脚本、修道院の洗練されながらも完全に清潔とは言えなさそうなリアリティを感じさせる撮影セット、そしてまさかのラウド音楽とノオミ・ラパスの繊細な演技。それらすべてが有機的に結びつき、重厚な一作として結実している。​​​​​​​​​​​​​​​​

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