東京国際映画祭で上映された『恒星の向こう側』を紹介&レビュー。
『恒星の向こう側』概要
映画『恒星の向こう側』は、『走れ、絶望に追いつかれない速さで』(2015)、『四月の永い夢』(2017)などに続く中川龍太郎監督の最新作。母の余命を知り故郷へ戻った娘・未知と、愛を拒みながらも娘を想う母・可那子の対話を通して、世代を超えて受け継がれる“愛のかたち”を繊細に描き出す。
福地桃子、寛一郎、河瀨直美を中心に、朝倉あき、南沙良、三浦貴大、久保史緒里、中尾幸世といった多彩なキャストが作品に奥行きを与えている。
親も子も、ただの一人の人間だけど
人間とは身勝手なもので、子どもを育てるのは「子どもが欲しかったから」「子どもができたから」という理由に過ぎないことが多いのではないだろうか。「このすばらしい世界を見る命を一人でも増やしたい」などという崇高な動機で子どもを生む人間が、果たしてどれだけいるだろう。“大人”なんて立派なものではない。子どもができようと孫ができようと、人間など等しく大した存在ではないのだ。結局何歳になろうと個は個であり、思い悩み、気を病み、社会の荒波や自身の感情の波に翻弄され続ける——そんな人間の姿こそが現実ではないか。

© 2025映画「恒星の向こう側」製作委員会
本作で描かれる親子もまた、側から見れば完全に関係は破綻している。“ギクシャク”どころではない、最悪の親子関係の状態で物語の幕は開く。しかし、何を言ってもこの親子が切っても切り離せないというのもまた事実だ。親子も、夫婦も、別個体として完全になど理解し得ない、それぞれの惑星のようなもの。しかしどうしても、見えない力で引っ張り合い、どこか繋がっているのだ。
河瀨直美らが残す好演
映画監督・脚本家として知られる河瀨直美が演じた可那子は、過去の秘密と短い余命を抱えた母親だ。病気を知った娘・未知が彼女の元に戻ってくるが、親子関係は驚くほど険悪である。可那子は当初、娘の世話になる気もなければ家に泊める気すらない。口を開けば嫌味ばかり——娘の未知も嫌気がさすばかりだ。どのような事情があろうと、母親としては態度が悪すぎるし意地悪すぎる。しかし、どこか不器用で思うことがあるというだけで、娘のことを全く思っていないわけではないこともわかってくる。時折、人間の核心を突くようなセリフを投げかける。そんな複雑な人物を、河瀨は印象的な演技で体現している。

© 2025映画「恒星の向こう側」製作委員会
未知と夫の関係もまた、なんとも言えないちぐはぐ感を常に醸し出している。そこに可那子が不器用に思いを投げかけるのだが、この夫婦役を福地桃子と寛一郎は繊細な演技で演じきっていた。特に寛一郎の「言えない何か」を抱えながらのらりくらりと生きようとする夫の演技は見事の一言で、冒頭から観客に「何かおかしい」という違和感を抱かせる絶妙なバランス感覚を見せていた。
音楽と映像で紡ぐ詩的センス
そして、未知が知らない思いを抱えているのは母親・可那子も同じだ。一本のテープを通じて、未知が母の抱えていた“もうひとつの愛”を知っていくという構成は非常に詩的で、その世界観をharuka nakamuraによる音楽と丁寧な撮影が深く引き立てている。反発しながらも同じ影を追っているような母娘の髪型の一致、追いかける構図——こんがらがりながらも繋がりを感じざるを得ない親子関係を演出する映像表現が非常に印象的で、セリフ以上に映像が雄弁に語る一作だと言えるだろう。

© 2025映画「恒星の向こう側」製作委員会
人それぞれ、どのような生き方をするか。誰かを断罪しようとするでもなく、それぞれの苦悩と、リアルな温かくて冷たい人間関係を描写し共感を誘う——そんな誠実さと詩人的センスに満ちた映画作品だった。
ライター/エディター/映画インスタグラマー。2019年に早稲田大学法学部を卒業。東京都職員として国際業務等を経験後、ライター業に転身。各種SNS(Instagram・X)やYouTubeチャンネル「cula 見て聞く映画マガジン(旧:アルテミシネマ)」においても映画や海外ドラマ、音楽といったカルチャーに関する情報レビューを発信している。
