最新映画『次元を超える』を紹介&レビュー。
今年公開された作品の中でも、これほどカオスでありながら、同時にこれほど思考を刺激される映画があっただろうか。10月17日(金)に公開される『次元を超える』は、まさにそんな衝撃作だ。本作が持つ独特の魅力、そして観客に投げかけてくる問いについて、ここに記しておきたい。
『次元を超える』あらすじ
孤高の修行者・山中狼介(窪塚洋介)が、危険な宗教家・阿闍梨(千原ジュニア)の家で忽然と姿を消す。狼介の恋人・野々花(芋生悠)は、謎多き暗殺者・新野風(松田龍平)に捜索を依頼する。法螺貝に導かれるようにして狼蘇山で邂逅を果たした狼介と新野は、次元を超えて鏡の洞窟で対峙することになる。過去から現在、そして未来へ。日本から地球へ、さらには宇宙へと到達した彼らの眼前に広がったものとは一体何だったのか——。

『次元を超える』©次元超越体/DIMENSIONS
カオスと映像美が共存する、唯一無二の映画体験
“次元を超える”映像表現の極致として、近年では『スパイダーマン:スパイダーバース』シリーズが記憶に新しい。世界線を越えるたびに映像表現が変容し、世界観そのものが塗り替えられていく。一本の映画の中でこれを実現した手腕は見事というほかないが、あれはアニメーションだからこそ成し遂げられた離れ業だと感じた。アニメという表現形式が持つ本質的な自由度が、あの奔放さを許容していた。
ところが本作はどうだ。実写映画でありながら、世界観を縦横無尽に跳躍していくこの途方もない自由度は、一体何なのか。圧倒的なカオス。正直に言えば、本作が内包している全てを理解したとは言い難い。突飛でシュール、破天荒としか形容できない映像体験だ。それでいて、スクリーンから目を逸らすことができない。痛みと血の生々しさ、どこかに実在していそうなシュールなカルト宗教、狂気じみた強迫観念、現実から乖離した異空間、渋くてクールな孤高の生き様と愛と隔絶された人生の孤独、大自然が醸し出す荘厳さ、死生観をめぐる哲学的思索、宇宙や未来へ向けられたロマンティシズム——これらすべてが、驚くべきバランス感覚のもとに統合され、一本のエンターテインメント映画として成立している。このバランス感覚には、ただ舌を巻くしかない。
思考を刺激する構造と音楽―観客を巻き込む磁力

『次元を超える』より ©次元超越体/DIMENSIONS
本作には「いつまで続くのか」と思わせるほどの長回しシーンが随所に挿入されているが、不思議と画面に吸い寄せられてしまう。このカオスで突き抜けた世界観と、ともすれば冗長と受け取られかねない編集でありながら、観客を強力に引き込む磁力が働いている。そしてその磁力を生み出す要素は、決して単一ではない。
第一に挙げるべきは、予測不能で唯一無二のプロット構造だ。彼らに何が起きようとしているのか。彼らが追い求める目的とは何なのか。そもそもタイトルが示唆する「次元を超える」とは何を意味するのか。観ている間、疑問は次々と湧き上がり、展開を予測することは不可能に近い。思考は常にフル回転を強いられる。観客を能動的な鑑賞へと誘う手腕は、まさに見事という他ない。
さらに、この独特な世界観を支えているのが音響と音楽である。圧倒的な効果音は観客の意識をも揺さぶり、否応なく映画の世界へと引きずり込んでいく。音楽もまた極めて印象的だ。サックスが先導するジャズ的なナンバーがあるかと思えば、電子音が支配する楽曲もある。音楽の領域においても、本作は「何でもあり」を貫いている。
メタ的表現と時代性―豊田利晃が描く異形の世界
そして表現手法という観点では、メタ的な時代性という意味でも次元を超越している。80〜90年代の日本ホラーを彷彿とさせる不気味さには、思わず鳥肌が立った。あのサイケデリックで古めかしい不穏な空気感を、この時代にまだ再現できるのかと驚かされた。重要なのは、これが単なる「あの頃の表現へのオマージュ」として消費されていない点だ。確かにあの時代の感触を纏いながら、同時に現代の作品として観る者の不安を掻き立ててくる。この二重性こそが、本作の表現における真の達成だろう。

『次元を超える』より ©次元超越体/DIMENSIONS
そしてもちろん、本作を本作たらしめているのは、この異形の世界観に決して負けることなく、むしろその中心に立つことのできるキャストたちである。『青い春』の松田龍平、『PORNOSTAR ポルノスター』の千原ジュニア、『全員切腹』の窪塚洋介をはじめ、渋川清彦、板尾創路、芋生悠といった、豊田利晃監督の過去作で確かな仕事を積み重ねてきた俳優陣が結集している。彼ら全員が、画面を支配する独自のオーラを放っている。だからこそ、監督は自信を持って長回しや突飛なシーンに挑めるのだろう。
特に印象深いのは、序盤で新野風(松田)と阿闍梨(千原)が順番に映し出されるシークエンスだ。あの場面からは、「この二人を見ろ」という監督の確信、そして二人の存在感と表現力に対する絶対的な信頼が伝わってくる。
生と死、意味と祈り―「次元を超える」とは何か
本作で登場人物たちが超えようとしている「次元」とは、一体何を指しているだろうか。死をもって先へ進もうとする姿などを見ていると、この時代、今世、今目の前に広がる世界とは異なる「どこか」を希求しているように思える。それは端的に言えば、”存在意義”と呼べるものなのかもしれない。
人は「自分の物語」が物語として完結することを、どこかで望んでしまう生き物なのではないだろうか。喜びに満ちた展開もあれば、悲しみに沈む展開もあって、どこかでカタルシスを迎え、納得のいく結末と共に「生きた意味」を獲得できる——そんな物語のような人生、意味で満たされた人生を求めてしまう。
だが、本来、生まれることにも、生きることにも、意味などない。死ぬことにもまた、意味などない。おそらく誰もが、心のどこかではそのことに気づいているのではないだろうか。けれども人間はそれほど強くはないし、甘えも抱えている。その結果、誰かに存在意義を教えてもらおうとしたり、無理にでもそれらしい使命感を持とうとしたり、極端な話、宗教に救いを求めたりする。生と死に、何らかの形を与えようとするのだ。

『次元を超える』より ©次元超越体/DIMENSIONS
けれども、残酷な現実は正解を差し出してはくれない。簡単にどこへも行けないのなら、今世ではない「どこか」に正解が存在するのではないかと夢想し、次元の先を探し求める。ここで思い出されるのが、カルト的な支持を集めるフランス映画『マーターズ』だ。『マーターズ』では誘拐した女性に極度の痛みを与えることで何かが“視える”のではないかと探る狂気のカルト集団が登場したが、どこかに「この先」があるのではないか——人はそう信じてしまう。だから我々は、死後の世界についても思いを巡らせる。神のような、この世界には見えない存在のために。死者のような、この世界から消え去ってしまった者たちのために、祈りを捧げる。祈りの対象が存在するということは、その対象が棲まう「どこか」もまた存在しうるのではないか、と考えるからだ。存在しない可能性も十分にあるというのに。
目的も持たないこの人生に意味を与えられるとすれば、それは受動的に誰かから授けられるものではない。自分自身が意味を見出し、自分の物語を紡いでいかなければ、意味など生まれようがないのだ。自らの手で今世に意味を、目的を与えることができたなら——あるいは、目的などないこの今世をそのまま受け入れ、楽しもうと思えたなら——それこそが、真に「次元を超える」ということなのかもしれない。
最後にはThe Birthdayの「抱きしめたい」が流れる。「俺は決めたんだ/あのクズ共から世界を奪い返すって/それで青に還すんだ/その後でお前を根こそぎ抱きしめてやる」と。この世界に守りたいもの(味方)と憎むべきもの(敵)を見出し、自分の“目的”を見つけ、強くなる——本作の主題と共鳴する楽曲があるだろうか。選曲の妙としか言いようがない。時空を超えて、故・チバユウスケの力強い魂の歌声がスクリーンに響き渡る。最高のラストだった。
『次元を超える』は10月17日(金)公開。このカオスな作風の中に、あなた自身の哲学を見出してほしい。そして、思考を巡らせてほしい。本作は、そうした能動的な鑑賞に応えてくれる映画だ。
ライター/エディター/映画インスタグラマー。2019年に早稲田大学法学部を卒業。東京都職員として国際業務等を経験後、ライター業に転身。各種SNS(Instagram・X)やYouTubeチャンネル「cula 見て聞く映画マガジン(旧:アルテミシネマ)」においても映画や海外ドラマ、音楽といったカルチャーに関する情報レビューを発信している。
