60歳の孤独な男が、他者の“不在”を通じて人生に向き合う静かな再生の物語『マルティネス』が8月22日(金)に公開となった。
60歳でようやく動き出す人生 ―「変化」は予期せぬかたちでやってくる
職場での静かな日常。ルーティンワーク、ひとりきりの食事、泳ぐだけの朝。 映画『マルティネス』の主人公マルティネスは、人生のほとんどをメキシコ・グアダラハラの公的機関で過ごしてきた、60歳のチリ人移民の男性だ。彼の生活は整ってはいるが、他者との関わりは極端に少なく、孤独とルーティンに支配された世界にいる。

『マルティネス』© 2023 Lorena Padilla Bañuelos
そのマルティネスにある日、突然の通告が届く。早期退職を求められたのだ。後任には若く陽気なパブロが着任し、彼を教育するよう指示されるが、彼はパブロの態度や冗談に苛立ちすら感じてしまう。「新しい景色、新しい音、新しい匂いなどを受け入れるということが、マルティネスには難しいのです」と語るのは、主人公を演じたフランシスコ・レジェスだ。
マルティネスは、移民でありながら40年以上もグアダラハラに暮らし続けた人物として描かれる。その一方で、“変わること”に臆病であり、“ここにいたい”という欲望と、“ここに馴染めない”という感覚がせめぎ合う。「感覚は矛盾しているが、ここにずっといたいと思っている」というレジェスの言葉にある通り、この人物の核心には、自分の中の二重性とどう付き合うかという問いがある。
そして、その問いへの返答は、思いがけないかたちで訪れる。ある隣人の“死”という、静かな事件によって。
見えない隣人が残したもの ― “不在”が誰かを動かすということ
人生を自分以外の存在に揺さぶられる瞬間は、しばしばその存在が**「もういない」**ときに訪れる。
マルティネスの下の階に住んでいた女性アマリアは、ある日、アパートで亡くなっているのが発見される。生前彼女と親しく接したわけでもなく、どんな人物だったかすら知らなかったマルティネスは、最初こそ関心を示さない。だが、部屋の片づけを手伝うことになった彼は、彼女の遺品――旅行のプラン帳、昔の写真、日々のメモなど――に出会うことで、彼女の不在が残した“気配”と対話するようになる。

『マルティネス』© 2023 Lorena Padilla Bañuelos
そこには、自分とはまるで異なる人生を送っていた人物の、明るさ、好奇心、そして孤独が詰まっていた。マルティネスは、アマリアの存在に直接会ったわけでも、言葉を交わしたわけでもない。それでも彼は、そこに「何かを見る」のだ。
他人の人生にそっと入りこみ、彼女がどんな暮らしをしていたのかを探る――というこの物語は、決してミステリではない。むしろ、“他者を知る”という行為そのものが、どれほど内面的な旅になりうるかを描いている。マルティネスの心にじわじわと入り込むのは、彼女の“明るさの痕跡”であり、それが彼の閉じた日常に最初のひびを入れていく。
この物語におけるアマリアの役割は、あまりにも静かで、しかし計り知れない。彼女は、登場もしなければ声も発さない。それでも、彼女の「不在」がマルティネスの心を揺り動かす。そして、それこそが本作が描くもっとも繊細で普遍的なテーマなのだ。
静かに語りかけてくる街 ― グアダラハラの風景が映し出す心の軌跡
本作には大きな事件や衝撃的な展開はない。その代わりに、映像のひとコマひとコマがじっくりと、マルティネスの心の機微を映し出す。なかでも、舞台となるグアダラハラの街並みは、単なる背景以上の存在感を放っている。
観光地としての華やかさではなく、誰かの暮らしが根づく街角が丁寧に切り取られていく。路上の音、通りすがる人々、ゆっくりと動くバス――マルティネスの静かな日常と、グアダラハラの風景はまるで呼応するかのように重なり合う。そして彼が少しずつ変化していくにつれ、同じ光景が少しずつ違った色を帯びて見えてくる。

『マルティネス』© 2023 Lorena Padilla Bañuelos
静かな街の風景は、主人公の変化を声高に語らない。けれど、そこに確かに“物語”はある。その等身大かつどの街にもある余白こそが本作の魅力であり、観る者それぞれが自分の「街」や「暮らし」に重ねてしまう所以でもある。
マルティネスの旅路は、どこにでもあるようでいて、誰にも代われない孤独の記録であり、静かなる尊厳の回復でもある。その過程を見届けたとき、観客の心にもまた、静かだが確かな変化が訪れるはずだ。
『マルティネス』は8月22日(金)公開。
