ヘヴィメタルの重鎮オジー・オズボーンが逝去-ブラック・サバス再集結からわずか17日後

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オジー・オズボーンが76歳で死去。ブラック・サバスとの再共演から17日後の訃報となった。

ブラック・サバスの創設者として時代を築いた

オジー・オズボーンが現地時間7月22日(火)、76歳で死去した。家族が声明で発表し、「言葉だけでは表現しきれないほどの深い悲しみをもって、愛するオジー・オズボーンが今朝亡くなったことを報告しなければなりません。彼は家族に見守られ、愛に包まれて最期を迎えました。この時期に、皆様に我々家族のプライバシーを尊重していただくようお願いいたします」と伝えている。

死のわずか17日前、7月5日には英バーミンガムで最後のステージに立ち、長年在籍したブラック・サバスと再共演を果たした。この公演にはメタリカ、ガンズ・アンド・ローゼズ、スティーヴン・タイラーら豪華アーティストも出演した。

1948年12月3日、英ウェスト・ミッドランズのアストンに生まれたオズボーンは、1969年にトニー・アイオミ、ギーザー・バトラー、ビル・ワードとともにブラック・サバスを結成。バンド名は1963年のホラー映画『ブラック・サバス』に由来し、バトラーの見た悪夢が楽曲や世界観の原点となった。

バンドは、アイオミの重厚なギター、バトラーの陰鬱な歌詞、ワードのドゥーム感あるドラム、そしてオズボーンの不気味な歌声によって独自の音楽性を確立。1970年発表のデビュー作『Black Sabbath』と続く『Paranoid』はいずれも成功を収め、ヘヴィメタルというジャンルの礎を築いた。

ソロ活動でメタル界の象徴へ

1979年、オジー・オズボーンはブラック・サバスを脱退し、ソロプロジェクト「Blizzard of Ozz」を始動する。契約先であるドン・アーデンのレーベル、Jet Recordsの下で活動を続け、マネジメントを担ったのがアーデンの娘であり、後に妻となるシャロン・アーデンだった。

新生Blizzard of Ozzには、ランディ・ローズ(ギター)、ボブ・デイズリー(ベース)、リー・カースレイク(ドラム)、ドン・エイリー(キーボード)らが参加。1980年にリリースされたデビュー作『Blizzard of Ozz』はマルチプラチナを達成し、ソロアーティストとしての成功を決定づけた。

翌年発表された『Diary of a Madman』では、ローズが卓越したギターワークで注目を集め、「Over the Mountain」や「Flying High Again」などがヒットを記録。だが1982年3月、ツアー中の飛行機事故でローズが死亡。運転していたバスの運転手であり操縦士のアンドリュー・エイコック、衣装デザイナーのレイチェル・ヤングブラッドも同乗しており、命を落とした。

ツアーは中断を経て再開され、ギタリストはバーニー・トーメからブラッド・ギリスへと交代。1982年にはライブ盤『Speak of the Devil』を発表。翌1983年には、ジェイク・E・リーをギタリストに迎えた『Bark at the Moon』をリリースし、アルバムは米国で300万枚超のセールスを記録した。

1986年の『The Ultimate Sin』もダブルプラチナに達するが、薬物依存との闘いが続くなかでジェイク・E・リーはバンドを去る。1988年には新たにザック・ワイルドを起用し、『No Rest for the Wicked』を制作。ツアーではベースにギーザー・バトラーが復帰し、かつてのサバスメンバーと再び共演する形となった。

同年にはリタ・フォードとのデュエット曲「Close My Eyes Forever」が全米ビルボード8位にランクイン。オズボーンはソロでもヒットチャート上位を獲得する存在となり、メタル界の象徴的存在としての地位を確立していった。

Ozzfestとリアリティ番組で新たな地平へ

1990年代以降も、オジー・オズボーンは音楽シーンの第一線に立ち続けた。1991年のアルバム『No More Tears』はMTV世代にも広く浸透し、「Mama, I’m Coming Home」などがヒット。1993年にはライブ盤『Live & Loud』をリリースし、「I Don’t Want to Change The World」でグラミー賞の最優秀メタル・パフォーマンス賞を受賞した。

1995年には『Ozzmosis』を発表。ザック・ワイルド、ギーザー・バトラー、スティーヴ・ヴァイ、ディーン・カストロノヴォらが参加し、ビルボード200で4位を記録。アルバム収録の「Perry Mason」「See You on the Other Side」などがファンに支持され、同作はダブルプラチナとなった。

1996年10月、オズボーン夫妻はフェスティバル「Ozzfest」をスタート。アリゾナ州フェニックスで開催された初回を皮切りに、同フェスは伝統的なメタルバンドから新鋭アーティストまで幅広く紹介し、最終的な収益は1億ドルを超えたと報じられている。

2001年の『Down to Earth』もプラチナ認定を受け、「Dreamer」がビルボードのメインストリーム・ロック・チャートでトップ10入り。2003年1月にはシャロン、娘ケリー、息子ジャックとともに「第30回アメリカン・ミュージック・アワード」のホストも務めた。

さらに、2002年から2005年にかけて放送されたMTVのリアリティ番組『The Osbournes』では、ロックの帝王としての姿とは対照的な家庭人としての顔を見せ、家族全員が一躍有名人となった。2005年には、その流れを受けて若手バンドの発掘をテーマにした番組『Battle for Ozzfest』も放送された。

2003年12月、オズボーンは全地形対応車の事故で鎖骨、肋骨、首の骨を骨折する重傷を負ったが、療養中に娘ケリー・オズボーンとのデュエットによる「Changes」が全英シングルチャートで初の1位を記録するなど、存在感を示し続けた。

“Prince of Darkness”として記憶される

オジー・オズボーンは、ソロとバンドの両方でロック界の頂点を極め、音楽史に名を刻んだアーティストだった。2006年にはブラック・サバスの一員としてロックの殿堂入りを果たし、2024年にはソロアーティストとしても再び殿堂入り。英国音楽の殿堂にもバンド/ソロの両方で選出されている。

総売上は1億枚を超え、数々の代表曲とアルバムを世に送り出してきた。2007年の『Black Rain』、2010年の『Scream』、2014年のベスト盤『Memoirs of a Madman』など、後年の作品群も一定の評価を受けた。2009年に刊行した自伝『I Am Ozzy』は『ニューヨーク・タイムズ』のベストセラーランキングで初登場2位となり、2011年には息子ジャック・オズボーンが製作したドキュメンタリー『God Bless Ozzy Osbourne』がトライベッカ映画祭で初公開された。

2011年には米ウェスト・ハリウッドの「Whisky a Go Go」でブラック・サバスの再結成が発表され、2013年にはリック・ルービンがプロデュースを手がけた『13』を発表。英米両チャートで1位を記録し、長年のファンと新世代のリスナーに訴求した。

そして2025年7月5日、故郷バーミンガムで開催された「Back to the Beginning Concert」で、オジー・オズボーンは最後のステージに立った。椅子に腰掛けた“Prince of Darkness”は、「Crazy Train」「Iron Man」「Mama, I’m Coming Home」など、自らの歩みを象徴する楽曲を熱唱。約半世紀にわたるキャリアの幕を自ら引いた形となった。

オジー・オズボーンは、妻シャロン、娘エイミー、ケリー、息子ジャックのほか、前妻との間にもうけたジェシカ・スターシャイン、ルイス・ジョン、養子のエリオット・キングスリーを遺している。

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