新作映画『ハードボイルド』 を紹介&解説するレビュー。
リーアム・ニーソンが、記憶を失いつつある裏社会の男を演じる『ハードボイルド』(原題:Absolution)が、10月9日(金)より日本公開される。これまで数々のアクション作品で孤高の男を体現してきたニーソンが、本作で向き合うのは、人生の終盤に差しかかった男が過去の罪と対峙し、“赦し”を求めて足掻く姿だ。渋く陰鬱なハードボイルドの空気のなかに描かれる、贖罪と赦しのドラマを紐解いていきたい。
映画『ハードボイルド』レビュー
円熟のニーソンが背負う哀愁
数多くのアクション作品に出演し、アウトローも幾度となく演じてきたリーアム・ニーソン。キャリアの終盤に差しかかり、自らの人生を振り返る——そんな本作の主人公の姿は、第一線を駆け抜けてきたニーソン自身の歩みとも重なる。円熟味を帯びた佇まいと、そこに漂う哀愁が、役柄と見事に合致した一作だ。
もっとも、ニーソンは本作の2年前にも『MEMORY メモリー』で主演を務め、“アルツハイマー×裏社会アクション”という本作に似通った題材を演じている。加えて、裏社会に生きる孤高の男という役どころ自体が彼のフィルモグラフィーには多く、髪型や服装に至るまで似通った役が少なくない。そのため、過去作と重なる既視感が多少拭えないのは否めない。
それでも本作は、“赦し”を求める切実なドラマと、渋く陰鬱なハードボイルドの空気によって、一定の独自性を獲得している。

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原題『Absolution』が意味するもの
原題の『Absolution』を辞書で引くと、“赦し”という訳語が出てくる。ただしこれは、謝罪を受けて相手を許すという意味での「許し(forgiveness)」とはニュアンスが異なる。指しているのは宗教上の赦し、つまり洋画でたびたび目にする、神に罪を懺悔し「汝は赦された」と告げられる、あの“赦し”である。
無宗教の日本人である筆者には完全に理解しきれない部分もあるが、そこにはどこか強制的で、形式的な響きが感じられる。実際、法律用語としては免除や無罪放免に近い意味でも用いられるようだ。愛情や人情によって赦されるのとは違う。それでも、たしかな救済と罪からの解放は与えられるのである。
キリスト教圏において、人々は神に罪を懺悔(告白)し、赦しを請う。無法の行いに手を染め、家族をないがしろにしてきた本作の主人公もまた、自らの罪を贖おうとする姿を見せる。いまさら行動を起こしたところで、本当に赦されるのかはわからない。それでも赦されたいと願うからこそ、記憶が失われていくなかで、赦しを得るためにできる行動を残していくほかない。その切実さこそが、本作の核をなしている。
“ハードボイルド”の裏に宿る普遍的なテーマ
一方で、彼を赦す側にも、同様の儀式的で形式的な側面が感じられる。家族だから、彼が懸命に努力しているから、“赦さなければならない”“赦してあげるべきだ”――そうした赦しは、必ずしも心の底から相手を受け入れたものではないだろう。それでも、そこであえて寄り添い、あえて赦したかのような態度を示してみせる。それは大きな勇気を要し、決して容易なことではない。しかし、相手のためにも、そして物事を前へ進めるためにも価値のある行動であり、勇気ある尊い決断だといえる。
本作は、赦しを求めて足掻く側と、その足掻きを前にして赦すべきかを考え、問題と向き合う側、その両者を描いた作品である。ハードボイルドの体裁をとり、裏社会を舞台にした物語ではあるが、そこに込められたテーマは普遍的であり、観る者が感情移入できる余地を十分に備えている。
『ハードボイルド』は、裏社会を舞台にしたクライムアクションの体裁をとりながら、誰もが人生のどこかで向き合う“赦し”という普遍的な問いを観る者に投げかける。円熟の域に達したリーアム・ニーソンが全身で体現する哀愁と切実さを、ぜひスクリーンで確かめてほしい。『ハードボイルド』は10月9日(金)より日本公開。
