新作映画『スパイダーマン:ブランド・ニュー・デイ』 をネタバレありでレビューする後半戦。
7月31日(金)より公開中の『スパイダーマン:ブランド・ニュー・デイ』は、トム・ホランド版最新作にして、“親愛なる隣人”の物語としての原点へと立ち返った一本である。別稿のレビューでは、その手触りやテーマの普遍性について、核心には踏み込まぬかたちで論じてきた。
だが本作の真価は、物語の全貌を明かしてこそ、より深く語り得るものだ。セイディー・シンク演じるキャラクターの正体、ピーターの身に生じた異変の意味、そしてMCUの行く末を左右する仕掛けの数々——。ここから先は、それらすべてに立ち入りながら、本作が描き切ってみせたものの正体を見定めていきたい。未見の方は、ぜひ劇場で本編を見届けたのちに、あらためて読み進めていただければ幸いである。
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ここからは『スパイダーマン:ブランド・ニュー・デイ』の内容に関するネタバレを含みます。
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“彼女”の姿が映し出すピーターの苦悩
本作最大のサプライズは、やはりセイディー・シンク演じるキャラクターの正体だろう。彼女が秘密にしてきたその役柄は、一定層から予想もされていたが、『X-MEN』シリーズを代表するミュータントのひとり、ジーン・グレイであった。
ジーンは他者の精神に入り込み、その肉体を意のままに操る力を備えている。物語序盤からニューヨークを騒がせていた“姿なき何者か”による一連の犯罪も、まさしくこの能力の産物にほかならなかった。
しかも彼女は、時に卑劣とも映る行いに手を染めていく。だがジーンは、もちろん単純な悪役として片づけられる存在ではない。姉サラをめぐる深い悲しみと怒りを胸に秘め、その情念が終盤に至るまで彼女につきまとい続けるのだ。
ここで見逃せないのは、ジーンがピーターときわめて近い境遇に置かれているという点だ。特別な力を授かったがゆえに、平穏な日常を奪われたこと。家族を失い、誰ひとり頼るあてもなく、孤独のうちに生きてきたこと。そして、自らの力を祝福ではなく災いとして引き受けていること。それらはことごとく、本作のピーターの姿へと重なっていく。
ピーターは、スパイダーマンとして期待を背負えば背負うほど、我が身に生じた異変に苛まれていく。有機ウェブが発現し、感覚も身体能力もいっそう研ぎ澄まされていく一方で、力を行使するたびに攻撃性が増し、瞳は黒く染まり、やがて自分自身を御しきれなくなってしまうのだ。そこでピーターは、自ら生み出した抑制装置によって、この新たな力を封じ込めようと試みる。ここではゲスト出演となったブルース・バナー/ハルクも重要な役割を果たした。
力を受け入れるのではなく、危ういものとして拒む道を選んだのである。かたやジーンもまた、力によって傷つけられ、その力をもって復讐を遂げようとしている。一見、正反対の方向へと歩んでいるように見えるふたり。だがその根底に横たわるのは、同じ孤独であり、同じ自己否定にほかならない。
“ピーター・パーカーか、スパイダーマンか”
だからこそ、クライマックスでジーンがピーターに突きつける「お前はピーター・パーカーか、それともスパイダーマンか」という問いこそが、本作全体の核心をなす。
これまでのピーターは、そのふたつを切り離そうと努めてきた。ピーター・パーカーとして生きようとすれば、大切な人々を危険にさらしてしまう。ならばいっそ私生活を捨て去り、スパイダーマンに徹すればいい——と。
だが、そうして彼が手にしたのは、冒頭で描かれたあの圧倒的な孤独にほかならなかった。ジーンの問いに対し、ピーターは「どちらも自分だ」と答えてみせる。そして、自らの力を封じ込めていた抑制装置を、その手で解き放つのだ。
この瞬間、有機ウェブはもはや単なる新技でもファンサービスでもなくなる。それは、ピーターが我が身に生じた変化を受け入れ、ピーター・パーカーとスパイダーマンの双方を紛れもない自分自身として引き受けたことの証となる。敵の武器によって人工ウェブが砕かれてもなお、彼自身の肉体から紡ぎ出された有機ウェブだけは、決して破壊されることがない。ありのままの自分を押し殺すのではなく、その力とともに生きること——アクションの只中にあって主人公の精神的成熟を描出してみせた、本作屈指の名場面である。
X-MEN合流へ向けた、物語とテーマの準備
『スパイダーマン:ブランド・ニュー・デイ』は、MCUにおけるX-MENの本格合流に向けた、きわめて大きな一歩でもある。
その布石は、すでに段階を追って打たれてきた。『マーベルズ』のエンドクレジットシーンでは、異なる世界へとたどり着いたモニカ・ランボーの前に、ビーストが姿を現す。続く『デッドプール&ウルヴァリン』では、デッドプールやウルヴァリンをはじめ、これまでMCUの外側に置かれてきたX-MEN関連のキャラクターとその映画史を、TVAとマルチバースを介してMCUの物語へと接続してみせた。
そして本作において、ジーン・グレイはサプライズ的な顔見せにとどまらず、物語の中心人物として立ち現れる。すなわち、異世界にX-MENが存在すると示唆する段階から、ミュータントそのものをMCU本流のドラマへと組み込む段階へ——シリーズは確かに歩を進めたのである。
そしてピーター自身もまた、我が身に生じた変化に怯え、新たな力を封じ込めようとする。それゆえ本作におけるピーターとジーンの葛藤は、そのまま、これからMCUで描かれていくであろうミュータントたちの物語を先取りするものとなっている。
アベンジャーズとX-MENが実際に同じ画面へ並び立つより前に、なぜミュータントが恐れられ、何に苦しみ、何と戦うのか——それを観客にあらかじめ体験させているのだ。
そう捉えるなら、本作は単にジーン・グレイを登場させただけの映画ではない。ミュータントがアベンジャーズを軸とするMCU本流へ合流するための、物語上、そしてテーマ上の地ならしまでを、ピーターの物語と巧みに絡め、彼の話を少しも損なうことなく引き受けてみせた一本なのである。
過去には戻れないピーターとMJ
MJとの関係をめぐって、本作が安易な解決に逃げなかった点もまた印象深い。ピーターが4年前にしたためた手紙を読んだMJは、自分の人生を左右する重大な選択を、ピーターがひとりで下してしまった責任を問いかける。ピーターは今なおMJを愛していると打ち明けるが、MJのほうは、あなたを愛してなどいない、自分にとってあなたは見ず知らずの他人なのだと、はっきり言い放つ。
魔法がふいに解け、ふたりがたちどころに元の関係へ戻る——そんな都合のよい物語ではないのだ。その直後、街を渡っていくウェブスイングの光景は、あまりにも虚しく、そして切ない。スパイダーマンがウェブを繰り出し宙を舞っているというのに、これほどまでに悲しい場面になり得るのか——そう思わずにはいられない。
それでもなお、ピーターはMJやネッドとのつながりを完全に手放してしまうのではなく、もう一度、その関係を築き直す道を選ぶ。
失われた過去をそのまま取り戻すのではない。今を生きる彼らと、新たな関係を一から始めていく。それこそが、『ブランド・ニュー・デイ』というタイトルに込められた意味のひとつなのだろう。
ピーターは、もうひとりではない
クライマックス、ジーンをかばって銃弾に倒れたピーターは、深い昏睡へと沈む。ニューヨークにはスパイダーマンの回復を願う人々が続々と集い、街は赤と青の光に包まれていく。そしてジーンもまた、ピーターを死の淵から呼び戻すべく力を尽くし、銃撃の責を負うパニッシャーことフランクもまた、彼を懸命に運び、その傍らで容態を見守り続ける。
誰にも知られぬまま戦い続けていると思い込んでいたピーター。だが、彼が守り抜いてきた街の人々は、確かにスパイダーマンを愛していたのだ。ジーンとフランクもまた、不器用ながらも、ピーターを支える味方となった。
本作でピーターが手にした最大の力とは、有機ウェブでもなければ、研ぎ澄まされたスパイダーセンスでもない。誰かを頼り、誰かとともに生きる道を選べるようになったこと——それにほかならないのだと思う。
移動する彼女とエンドクレジット後の意味
ジーンは事件のあと、バスに揺られてどこへともなく去っていく。行き先が明かされることはないが、X-MENの拠点たるエグゼビア邸、すなわちプロフェッサーXのもとへ向かっているのではないか——そう思わせる一幕であり、MCUにおけるX-MENの本格始動へとつながっていく布石なのかもしれない。
そしてエンドクレジットの後には、ネッドが手ずから作り上げた「スパイディ・トラッカー」に、スパイダーマンが地球の外にいることを示す表示が浮かび上がる。なぜピーターが地球を離れているのか、いかなる惑星に身を置いているのかは、いっさい判然としない。そもそも、ピーターならざる別のスパイダーマンが現れた可能性すら否定はできないだろう。『アベンジャーズ』の一連の作品、あるいはさらに大きな宇宙規模の物語への合流を予告しているようにも映るが、これとて断定は許されない。“親愛なる隣人”たるスパイダーマンが、ふたたび壮大にすぎる戦いへと巻き込まれていく——その可能性を残してみせた映像といえるだろう。
オマージュで感じさせる愛
加えて本作は、随所にちりばめられたコミックオマージュの数々もまた楽しい。スコーピオンのみならずトゥームストーンまでもが顔を覗かせ、ブーメラン、ラムロッド、タランチュラといったヴィランたちとスパイダーマンが対峙するカットは、マーベルコミックの表紙イラストそのままの構図で描き出されている。パニッシャーが満身創痍のピーターを抱えて現れる場面も、コミックの名シーンを忠実になぞった一幕だ。
こうしたささやかな目配せを通じて、物語の流れを一切妨げることなく原作コミックへの深い愛情を滲ませてみせる——その匙加減の妙もまた、実に見事であった。
こうして振り返ってみれば、『スパイダーマン:ブランド・ニュー・デイ』は、実に多くのものを一本のうちに引き受けた作品であった。特別な力を授かった者の孤独と自己否定という普遍のテーマ。ピーターとジーンという二つの魂の照応。MCUへX-MENを迎え入れるための、物語とテーマ双方にわたる周到な地ならし。そして何より、誰かとともに生きる道を選び取るまでの、ひとりの青年の成熟の記録——。それらが“親愛なる隣人”の物語という枠組みを少しも損なうことなく、みごとに束ねられている。
派手なサプライズや壮大な仕掛けに目を奪われがちな一作だが、その根に据えられているのは、どこまでもピーター・パーカーという青年の、ささやかで切実な物語だ。だからこそ本作は、幾度でも立ち返りたくなる余韻を残す。『スパイダーマン:ブランド・ニュー・デイ』は、7月31日(金)より公開中。物語の結末を見届けたそのあとで、ぜひもう一度、彼の“新しい一日”の始まりに思いを馳せてほしい。
