新作映画『プーチンの愛国教室』 を紹介&解説するレビュー。
戦時下のロシアで、学校の教室はいかにして戦争へと子どもたちを導く場になっていくのか。ひとりの小学校教師が自らの視点で記録し、危険を冒して国外へと持ち出した映像によって、その内側を克明に捉えたドキュメンタリー『プーチンの愛国教室』が、10月3日(土)に日本公開を迎える。愛国教育の名のもとに子どもたちへ注ぎ込まれていく思想と、それに違和感を抱きながら教壇に立ち続ける一人の教師のまなざしを通して、本作は「国を愛するとはどういうことか」という普遍的な問いを私たちに突きつける。
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映画『プーチンの愛国教室』レビュー
命懸けの記録と、教師の軽妙な語り口
本作は、ロシアの学校現場に浸透していく戦時下の愛国教育を、小学校教師パヴェル・タランキン自身の視点から記録したドキュメンタリーである。国家がプロパガンダ教育を通じて子どもたちを戦争へと導いていく実態を、当事者ならではの距離感と臨場感によって浮き彫りにしている。
戦争批判が厳しく制限される現在のロシアにおいて、この映像を撮影し、世界へ向けて持ち出すという行為は、文字どおり命懸けのものだ。その危うい過程そのものが、本作に張り詰めた緊張感と確かな現実味を与えている。
一方で、タランキン本人は軽口を叩くことも多い、ユーモアに富んだ明るい人物でもある。その軽妙な語り口が作品全体の空気をほどよく和らげており、観る者に重い問いを投げかけながらも、シリアス一辺倒の重苦しさを強いることはない。深刻な主題を扱いながら、最後まで肩肘張らずに向き合い続けられる一本に仕上がっているのは、彼の語り口によるところが大きいだろう。
“教育”と“洗脳”の境界線
もちろん、個人が明確な意思をもって撮影し、編集を施す以上、映画には必ず作り手の視線と意図が介在する。その意味で、本作が捉えたものを無条件に“真実”と呼ぶことはできない。同じく日本国内で報じられる情報も、日本人が目にすることのできる欧米の報道も、あるいはウクライナ側の主張も、どこまでが”真実”であるのかは、一介の市民には、どの国に暮らしていようと知る由もない。それでも、まずは「この映像に映る出来事や会話の数々が存在した」ということが発信されることに価値がある。
そもそも私たち自身、生まれ育った国の価値観や礼儀、常識を当たり前のものとして刷り込まれながら成長してきたのであり、どこまでが教育で、どこからが洗脳なのか、その境界線を明確に引くことは難しい。
それでもなお、少なくとも本作に記録された授業の数々は、“教育”ではなく“洗脳”としか私には見えなかった。幼い子どもたちには戦争こそが正義であると植え付け、若者たちには周囲に迎合しない者は悪であると感じさせる。そして多くの犠牲を覆い隠したまま、争いは続いていく。
さらに言えば、子どもたちを洗脳する側であるはずの政府関係者や教師たちでさえ、すでに洗脳を受けた後の存在であるかのようにすら思えてくる。自由な言論が許されず、ただひとつの思想しか認められない国家。日本に暮らす者の目から見て、その光景は心底恐ろしいものだった。
盲従だけが“愛国”なのか
そして本作は、現代の世界に向けて根源的な問いを投げかけてもいる。「国を愛すること」、すなわち「愛国心」とは、いったい何なのだろうか。タランキンは自らの国を、そして生まれ育った街を、「汚い街」などと紹介しながらも、間違いなく深く愛している様子を見せる。しかし、その想いは政府の方針とは相容れない。
劇中では、政府側の思想に立つ教師が「政府の主張や思想と相容れない者には愛国心がない。出ていけ」と生徒たちに告げる場面もあるが、果たして盲従することだけが愛国なのだろうか。国を愛しているからこそ、変わってほしいと願う。そうした愛のかたちもまた、確かに存在するのではないか。
愛する生徒たちをまっすぐに見つめる、タランキンの慈しみに満ちたまなざし。そして、愛する祖国から敵とみなされ、国を離れざるを得なくなった彼の、あまりにも悲しげな表情。そのいずれもが偽りのないものだと私には感じられ、だからこそ、いっそう胸を締めつけられた。
「記録された現実がどうであるか」以上に、この映像を前にして私たち観客が何を考えるのか。そこまでを含めて、本作が世界に向けて発信される意義はきわめて大きいと感じる。
『プーチンの愛国教室』は、遠い国の出来事をただ伝えるだけの作品ではない。教育と洗脳の境界はどこにあるのか、そして愛国心とはどうあるべきなのか。本作が投げかける命題は、異なる価値観のもとで育った私たち自身にも確かにつながっている。10月3日(土)の日本公開を機に、ぜひこの記録と正面から向き合い、自らの頭で考える時間を持ってほしい。
