映画『E.T.』(1982)を紹介&解説。
映画『E.T.』概要
スティーヴン・スピルバーグ監督が手がけた、孤独な少年と地球に取り残された異星人の交流を描くSFファンタジーで、感動的な家族劇としても知られる名作映画。少年は家にかくまった異星人と心を通わせ、兄妹の助けも得ながら故郷へ帰そうと奔走する。出演はヘンリー・トーマス、ドリュー・バリモア、ディー・ウォーレス、ピーター・コヨーテ。
作品情報
日本版タイトル:『E.T.』
原題:E.T. the Extra-Terrestrial
製作年:1982年
日本公開日:1982年12月4日
ジャンル:ファンタジー/SF
製作国:アメリカ
原作:無
上映時間:115分
監督:スティーヴン・スピルバーグ
脚本:メリッサ・マシスン
製作:スティーヴン・スピルバーグ/キャスリーン・ケネディ
製作総指揮:
撮影:アレン・ダヴィオー
編集:キャロル・リトルトン
作曲:ジョン・ウィリアムズ
出演:ヘンリー・トーマス/ドリュー・バリモア/ディー・ウォーレス/ピーター・コヨーテ/ロバート・マクノートン
製作:ユニバーサル・ピクチャーズ/アンブリン・エンターテインメント
配給:ユニバーサル・ピクチャーズ/CIC(日本初公開時)/東宝東和(2025年IMAX上映時)
あらすじ
1980年代初頭のアメリカ郊外。10歳の少年エリオットは、母や兄妹と暮らす家の近くで地球に取り残された異星人と出会う。やがて彼は兄妹の助けも借りてその存在を隠しながら心を通わせ、思わぬ騒動と追跡の手を逃れて故郷へ帰すために動き出すが、別れの時も次第に迫っていく。
主な登場人物(キャスト)
E.T.(声:パット・ウェルシュ):地球に取り残された異星人。言葉は多くないが豊かな感情を持ち、エリオット一家との交流を通じて強い絆を育んでいく。
エリオット(ヘンリー・トーマス):孤独を抱える10歳の少年。家の近くでE.T.と出会い、彼をかくまいながら心を通わせ、故郷へ帰す方法を探ろうとする物語の中心人物。
マイケル(ロバート・マクノートン):エリオットの兄。最初は戸惑いながらも次第に状況を理解し、弟やE.T.を助ける側に回っていく。
ガーティ(ドリュー・バリモア):エリオットの幼い妹。無邪気さと優しさを持ち、家族の中でも早い段階でE.T.を受け入れる重要な存在。
メアリー(ディー・ウォーレス):エリオットたちの母。3人の子どもを育てるシングルマザーで、家庭を守ろうとする一方、子どもたちの身の回りで起きる異変に直面する。
キーズ(ピーター・コヨーテ):E.T.の存在を追う政府関係者。少年たちと異星人の交流に外部から迫る存在として、物語に緊張感をもたらす。
主な受賞&ノミネート歴
アカデミー賞
作曲賞、音響賞、音響効果編集賞、視覚効果賞を受賞。作品賞、監督賞、撮影賞、編集賞を含む計9部門にノミネート。
ゴールデングローブ賞
作品賞(ドラマ部門)、作曲賞を受賞。脚本賞、新人賞(男優)、監督賞にノミネート。
英国アカデミー賞(BAFTA)
作曲賞を受賞。作品賞、脚本賞、撮影賞、編集賞、音響賞、特殊視覚効果賞にノミネート。
ニューヨーク映画批評家協会賞
確認できる受賞歴なし。
ナショナル・ボード・オブ・レビュー(NBR)
1982年のTop Ten Filmsに選出。
内容(ネタバレ)
森に取り残される異星人
物語は、植物を採取するため地球へ降り立った小型の異星人たちの場面から始まる。だが人間たちが森へ踏み込み、宇宙船は慌ただしく離陸する。その際、仲間のひとりだけが地球に置き去りにされてしまう。
エリオットとの出会い
地球に残された異星人は、郊外の住宅地に暮らす10歳の少年エリオットの家の物置へ身を潜める。最初は恐れたエリオットだったが、翌日、菓子を並べて異星人を自宅へ導き、自室にかくまうようになる。
兄妹だけの秘密になる
やがてエリオットは、その存在を兄マイケルと妹ガーティに打ち明ける。3人は、シングルマザーの母メアリーに知られないよう協力しながら、異星人を家の中に隠すことを決める。ここで映画は、少年少女だけが共有する“秘密”としてE.T.との関係を深めていく。
E.T.の能力と心のつながり
子どもたちは、E.T.が自分の故郷の星を思い続けていることを知る。さらにE.T.は、物を浮かせたり、枯れた花をよみがえらせたり、傷を癒やしたりする不思議な力を見せる。一方で、エリオットとE.T.の間には感情が響き合うような結びつきが生まれ、互いの状態が影響し合う様子も前半から示されていく。
“家に帰る”方法を探し始める
前半の中核となるのは、エリオットたちがE.T.をどう隠し、どう帰還させるかを考え始める流れである。E.T.は地球で手に入る物を使って通信装置のようなものを作ろうとし、エリオットたちは大人たちの目を避けながらそれを手伝っていく。少年の友情物語として進みながら、外では政府関係者の追跡も続いており、物語は次第に緊張を増していく。
ハロウィンの夜、帰還の合図を送る
E.T.は地球で集めた道具を使って“家に帰る”ための通信装置を作り上げる。エリオットたちはハロウィンの夜、E.T.をゴーストの仮装で外へ連れ出し、人気のない場所で宇宙船へ向けた信号を送らせる。空を飛ぶ自転車の場面は、この帰還計画の途中で生まれる象徴的なシーンである。
政府機関に見つかり、家は隔離空間になる
しかし、E.T.の存在を追っていた政府関係者たちはついにエリオットの家へ踏み込み、E.T.を保護・検査の対象として扱う。家の内部には無菌環境のような設備が設けられ、子どもたちの私的な空間は一気に管理下へ置かれる。ここで物語は、秘密の友情の物語から、別れと喪失の気配を帯びた展開へ大きく転じる。
E.T.とエリオットはともに衰弱していく
前半から示されていた感応のようなつながりは後半でより深刻になり、E.T.が重い衰弱状態に陥るのと呼応するように、エリオット自身も弱っていく。E.T.は一度は死んだかのように見え、エリオットは深い悲しみに沈む。映画の後半でもっとも感情的な落差が大きいのがこの部分であり、子どもにとって“友だちを失うかもしれない”という現実が前面に出る。
よみがえったE.T.と子どもたちの脱出
だがE.T.は再び息を吹き返し、なおも“家に電話したい”という意思を示す。そこでマイケルや仲間たちは、E.T.を政府の手から連れ出すため大胆な脱出を実行する。終盤の追跡劇では、子どもたちが自転車で逃走し、E.T.の力も加わって現実離れした高揚感のあるクライマックスへとなだれ込んでいく。
宇宙船との再会と別れ
子どもたちはE.T.を森の着陸地点まで送り届け、ついに迎えの宇宙船が戻ってくる。ここで映画は、異星人の帰還というSF的な結末であると同時に、かけがえのない友人との別れを描く感傷的な場面へ到達する。E.T.はエリオットに、自分たちの絆が消えないことを伝え、静かに宇宙船へ戻っていく。
ラストが示すもの
ラストは、E.T.が故郷の星へ帰ることで物語を閉じる一方、エリオットの側には喪失だけでなく成長の感覚も残す。孤独だった少年が、出会いと別れを通じて他者との深い結びつきを経験したことが、この映画の余韻として強く刻まれる。
作品解説|魅力&テーマ
孤独な少年と異星人の出会いが照らす“心の空白”
『E.T.』の感動が今なお色あせない大きな理由は、本作が“異星人との遭遇”そのものよりも、孤独を抱えた少年の心の揺れを丁寧に見つめた作品だからである。主人公エリオットは、母や兄妹と暮らしながらも、どこか満たされない寂しさを抱えている。その心の空白に入り込むように現れるのが、地球に取り残されたE.T.だ。言葉や文化の違いを超えて結ばれていくふたりの関係は、友情としてだけでなく、自分を理解してくれる存在と出会えた救いとして描かれている。
本作が優れているのは、E.T.を単なる“不思議で愛らしい異星人”として消費せず、エリオットの内面を映し出す鏡のような存在にしている点にある。エリオットが抱える不安や孤独、誰にも十分に共有できない感情は、E.T.との交流によって初めて輪郭を持ち始める。だからこそ本作は、SFファンタジーでありながら、少年が初めて他者と深く結びつく物語として強い普遍性を持つ。
さらに印象的なのは、この関係が“大人には完全には見えない世界”として描かれていることである。子どもたちだけが共有する秘密、説明しきれない信頼、失いたくないと思う気持ちが、映画全体にかけがえのないきらめきを与えている。『E.T.』は、未知の存在との出会いを通して、孤独な心が少しずつ癒やされていく過程を映し出した作品なのである。
“家に帰る”という願いに重なる、家族と居場所の物語
『E.T.』を象徴する言葉のひとつが、“E.T. phone home”である。本作は、地球に取り残された異星人が故郷へ帰ろうとする物語として広く知られているが、その“家に帰る”という願いは、単なるSF的な目的ではなく、もっと切実な感情の層を持っている。E.T.が目指しているのは自分が本来いるべき場所であり、その願いは観客にとっても、“自分を受け止めてくれる場所とは何か”という問いとして響いてくる。
このテーマが深いのは、E.T.だけでなく、エリオット自身もまた心の居場所を求めている存在だからである。家庭の中に身を置きながらも、彼はどこか孤独で、埋められない寂しさを抱えている。だからこそ、E.T.を故郷へ帰そうとする行為は、異星人を助けるためだけではなく、他者とのつながりの中で自分の居場所を確かめる行為にもなっていく。E.T.の帰還を願う物語は、そのままエリオットが家族や世界との結び直しを経験する物語でもある。
また、本作は血縁や家庭を無条件に理想化するのではなく、不完全さを抱えた家族の姿もにじませている。その中でなお、人は誰かと心を通わせることで支えを得られるのだと示していく点が印象的である。『E.T.』における“帰る場所”とは、単なる物理的な故郷ではない。自分が理解され、受け入れられ、そこにいてよいと思える居場所そのものを指しているのである。
子どもの視点で世界を見るからこそ生まれる映画魔法
『E.T.』が特別な作品として語り継がれている理由のひとつは、物語のほとんどが徹底して子どもの視点に寄り添っていることにある。大人たちはしばしば全体像を把握する側としてではなく、どこか遠くにいる存在、あるいは突然こちらの世界へ踏み込んでくる存在として映し出される。そのため観客もまた、エリオットたちと同じ目線で、未知の存在への驚きやときめき、不安や切なさを体験することになる。説明を重ねるのではなく、子どもが感じるままの温度で世界を見せる演出が、本作の純度を支えている。
この視点の置き方によって、『E.T.』はSF映画でありながら、どこか現実よりも鮮やかな“子どもの記憶”のような質感を帯びている。暗い森の怖さも、自転車で駆け抜ける夜の高揚感も、秘密を共有する幸福も、すべてが誇張ではなく、子どもの感覚にとっての真実として立ち上がる。だからこそ本作の名場面は、単なるスペクタクルとしてではなく、「あのとき確かにそう感じた」と思わせる感情の映像として残り続けるのである。
そして、その子どもの視点を支えているのが、スピルバーグの演出とジョン・ウィリアムズの音楽である。空へ舞い上がる自転車の場面や、別れへ向かう終盤の流れは、現実にはありえない出来事を描きながらも、観る者の感情には驚くほどまっすぐ届く。『E.T.』の“映画魔法”とは、派手な奇跡を見せることではなく、子どもの心にだけ見えていた世界を、そのまま観客にも信じさせてしまう力にある。だからこそ本作は、時代を超えてなお新しい感動を呼び起こすのである。
作品トリビア
スピルバーグの離婚体験が発想の原点になっている
本作の着想は、スティーヴン・スピルバーグが両親の離婚後に心の支えとして思い描いた“空想の友だち”にさかのぼる。本人は後年、この存在を「兄弟のようであり、父のようでもあった」と振り返っており、『E.T.』は単なる異星人映画ではなく、喪失感を抱えた子どもの感情に深く根ざした作品でもある。
当初はM&M’sを使う予定だったが、最終的にReese’s Piecesになった
E.T.を家へ導くお菓子は、もともとM&M’sが想定されていたが、Mars社が使用を見送ったため、最終的にReese’s Piecesが採用された。HISTORYの解説では、映画公開後にReese’s Piecesの利益が大きく伸びたという推計も紹介されており、本作は映画史上でも有名な商品変更の成功例として語られている。
ドリュー・バリモアは撮影当時、E.T.を本当に“生きている存在”だと思っていた
幼いドリュー・バリモアは、撮影当時E.T.を本物だと信じており、寒い日に「マフラーをしてあげて」と気遣ったという。再会特番などで共演者たちは、スピルバーグがその夢を壊さないよう、彼女の前ではスタッフにE.T.を動かし続けさせていたと回想している。
E.T.はひとりの俳優ではなく、複数のパフォーマーと人形技術で作られた
E.T.の身体表現は、アニマトロニクスだけでなく、複数の演者の協力によって成立している。資料によれば、シーンに応じて小柄な演者ふたりや、先天的に脚のない12歳のマシュー・デメリットらが着ぐるみや動作を担当し、手の演技には専門のパフォーマーも参加した。ひとつのキャラクターを多層的な実演で成立させた点は、本作の特殊効果面の大きな見どころである。
映画は子どもたちの感情を引き出すため、おおむね時系列順に撮影された
本作は大作映画としては珍しく、若いキャストの感情の流れを自然に保つため、おおむね物語の順番に沿って撮影されたことで知られる。とくに終盤の別れの場面で本物に近い感情を引き出す狙いがあったとされ、この制作方法も『E.T.』の瑞々しい子どもの演技につながったと考えられている。
ハリソン・フォードのカメオ出演シーンが撮影されていたが、本編からはカットされた
近年のヘンリー・トーマスの証言によれば、ハリソン・フォードは学校の校長役として短い場面を撮影していた。ただし顔は見せない条件つきでの参加で、完成版ではそのシーン自体が使われなかった。脚本のメリッサ・マシスンとの関係や、スピルバーグとの親交も背景にあったとされる。
20周年版で銃がトランシーバーに差し替えられたが、後にスピルバーグ自身が後悔を語った
2002年の特別版では、一部シーンで捜査員が持つ銃がトランシーバーに置き換えられた。しかしスピルバーグは2023年、この改変を「すべきではなかった」と振り返り、作品は作られた時代の記録として残すべきだという考えを示している。『E.T.』そのものの制作トリビアというより、作品の“後年の扱われ方”としてよく語られる話題である。
