新作映画『本当にあった話(の話)』 をレビュー。
水上恒司、佐々木蔵之介、小池栄子、黒木華という実力派キャストが顔をそろえた映画『本当にあった話(の話)』が、10月2日(金)に日本公開を迎えた。実際の事件をもとにした演劇の上演に向けて集った人々が、それぞれの信じる「本当」を譲らず、激しくぶつかり合う本作。タイトルが示すとおり、物語の核にあるのは「本当」とは何かという問いだ。
誰かにとっての真実が、別の誰かにとっては嘘になる。その危うい境界線上で繰り広げられる会話劇は、観る者に「本当」をめぐる思索を促さずにはおかない。
映画『本当にあった話(の話)』レビュー
譲れない「本当」がぶつかり合うとき
「本当」とは、いったい何なのだろうか。
誰もが胸の内に「信じたい本当」を抱えている。しかしそれは、他の誰かに「本当ではない」と告げられた瞬間、「本当」としての地位を失ってしまう。「本当」である以上、それは真実でなければならない。だからこそ「本当」は、その対象について語る全員の共通認識となったとき、初めて「本当」として成立するのだ。
であるならば、語らず、口にさえしなければ、それは自分にとっての「本当」のままでいられるし、そのほうがよほど平和であるはずだ。にもかかわらず、人は確かめずにはいられない。他者もまたそれを「本当」だと思っているのかを問い、確認したい衝動に駆られてしまう。
本作が描くのは、まさにそうした「本当」同士の衝突である。自分とは異なる誰かの「本当」を認めた途端、自分の「本当」は嘘へと転じてしまう。だからこそ誰も一歩も引くことができず、意地の張り合い、プライドを賭けた「本当合戦」の幕が上がる。その構図を極限まで煮詰めてみせたのが、本作なのかもしれない。

©鴻池留衣/文藝春秋 /2026「本当にあった話(の話)」製作委員会
一歩も引かない、四者四様の「本当」
妻の浮気によって離婚に至った夛田は、自分は確かに愛されていたという「本当」を追い求めるうちに、自らを重ね合わせた劇中の役柄に呑み込まれ、もはや引っ込みがつかなくなっていく。
他人を意のままに支配できるという「本当」を固持したい加藤にとって、思い通りにならない人間が存在するという「本当」は、自身のアイデンティティを根底から揺るがしかねない問題だ。
実際の事件をモチーフに脚本を書きながら、そこに自らが表現したい、信じたい「本当」を詰め込んだ堀内は、他者から押し付けられる別の解釈によって自分の「本当」が揺さぶられることを許せない。
そして俳優としての成功を望む米良は、自分の「本当」を曲げ、自分を殺してまで他人の「本当」に迎合することができない。
これほどエゴの強い人々が一堂に会すれば、もはやどの「本当」も成立し得なくなっていくのは必然だろう。そんな面々を、水上恒司、佐々木蔵之介、小池栄子、黒木華といった豪華キャストがクセたっぷりに演じており、それぞれの個性のぶつかり合いといえる会話劇は大きな魅力だ。

©鴻池留衣/文藝春秋 /2026「本当にあった話(の話)」製作委員会
「話」になった瞬間、事実は歪みはじめる
人が何かについて「話す」とき、そこには必ず主観が入り込み、その人だけの「本当」が生まれる。
「本当にあった話」と銘打ったところで、それが「話=ストーリー」として語られた時点で、事実はすでにわずかに歪んでいるのだ。
そうして事実は少しずつ薄められ、形を変えていく。「本当にあった話」として解釈されたものを、さらに別の誰かが「話」として語り直す。その連鎖のなかで、無数の「本当」が次々と生まれていく。これこそが「物語」というものの本質といえよう。

©鴻池留衣/文藝春秋 /2026「本当にあった話(の話)」製作委員会
「本当」は人の数だけあっていい
本作を観た観客が抱く「本当」もまた、人それぞれだろう。もっとも本作は、「演劇として上演しなければならない」という前提のもとに進む物語であるがゆえに、解釈が幾通りにも分岐してしまっては困る。
だが、そうした制約さえなければ、さまざまな「本当」が併存することを、むしろ楽しんでもいいのではないだろうか。
私にとっての「本当」が誰かにとっての嘘であっても、誰かの「本当」が私にとっての「本当」でなくてもかまわない。そのほうがよほど面白いはずだ。
とはいえ、誰もがそう割り切れるのなら苦労はしない。結局のところ、人は共感を求めずにはいられない生き物なのだ——本作は、そういう話なのかもしれない。
もっとも、この解釈が監督や演者にとっての「本当」であるかどうかまでは、ここでは言い切らずにおかなければならない。

©鴻池留衣/文藝春秋 /2026「本当にあった話(の話)」製作委員会
『本当にあった話(の話)』は10月2日(金)公開。
