【映画レビュー『オデュッセイア』】ノーランが神話に挑む叙事詩スペクタクル - 全編IMAXが映す壮大な映像の奥に、『オッペンハイマー』と地続きの問いが横たわる

『オデュッセイア』より Film Review
『オデュッセイア』より photo by Melinda Sue Gordon © Universal Studios. All Rights Reserved.

新作映画『オデュッセイア』 を紹介&解説するレビュー。


クリストファー・ノーラン監督の最新作『オデュッセイア』が、9月11日(金)に日本公開を迎える。『オッペンハイマー』から受け継がれてきた「人間と、その罪」をめぐる問いは、今作でついに神話の領域へと踏み込んだ。

史上初となる全編IMAXカメラ撮影が映し出すのは、太古の叙事詩でありながら、まぎれもなく現代の我々に突きつけられた問いである。ノーランは『オデュッセイア』で何を描き切ったのか。その核心に迫りたい。

『オッペンハイマー』が残したものを、ノーランは神話で引き受けた

筆者はかつて「ノーラン監督の作品間でのテーマの引き継ぎ」をテーマにした考察を動画で語ったことがある。デビュー作『フォロウィング』から前作『オッペンハイマー』に至るまで、ある作品で“残されたテーマ”が、次作、あるいはその次の作品で改めて掘り下げられてきた——そうした系譜を辿った内容だ。そして今回の『オデュッセイア』にも、筆者は同じ連続性を感じ取った。

『TENET テネット』の最後に残った“世界の命運がたった1人の手に握られたら?“という問いは、原爆を生み出した男を描く『オッペンハイマー』へと引き継がれた。だとすれば、その『オッペンハイマー』が積み残したテーマこそ、本作『オデュッセイア』が引き受けたものではないか。すなわち、“戦争で犠牲が出ることは、本当に誰か1人の責任なのか”“その罪を背負うのは誰なのか”という問いに、本作が正面から向き合うことになる。

作中の“トロイの木馬”は、いわば『オッペンハイマー』における原子爆弾だ。兵士同士の戦闘という枠を超え、戦争のルールすら逸脱した虐殺の悲劇が、“不意打ち”という形で遂行される——その一点において、両者は分かちがたく通じ合っている。そしてその罪に苛まれるのが、マット・デイモン演じるオデュッセウスにほかならない。その惨状を目の当たりにしておきながら、自らを英雄と誇り、勝利に酔いしれることなど、彼にできようはずもない。

なぜ争いは尽きないのか——『オデュッセイア』が暴く人間の性

だが本作は、「では愚かだったのはオデュッセウスだけなのか」という問いにまで踏み込んでいく。ここにこそ、『オデュッセイア』が『オッペンハイマー』より一歩先へと歩を進めた核心がある。

人は時に、自ら攻撃と略奪へと手を伸ばしてしまう。それでも、平和を望み、争いを拒み、対話によって解決する術を学べば、その振る舞いを正すこともできる。しかし、たとえ一部の者が姿勢を改めたところで、ただ一人でも攻撃と略奪に走る者がいて、相手がそれに応じてしまえば、行き着く先は結局のところ争いでしかない。

本作は、オデュッセウスの果てしない旅路、トロイア戦争を筆頭とする数々の戦闘描写、そして王位を巡る世継ぎ争い——それらすべてを通じて、ある冷徹な真実を突きつけてくる。すなわち、「誰かが愚かに振る舞い、欲をかくかぎり、争いと犠牲が絶えることはない。それは遥か太古から、歴史を貫いて変わることのない、人間という種の度し難い性なのだ」と。

現実味と迫力は両立する——ノーランが到達した叙事詩スペクタクルの質感

以上のように、本作は『オッペンハイマー』から地続きのテーマ性を色濃く孕んでいる。だが、その主戦場となるジャンルはまるで異なる。今回ノーランは、これまで一度も挑んでこなかった“神話ファンタジースペクタクル”に、初めて足を踏み入れているのだ。

とはいえ、そこはさすがのノーランである。ただ壮大なだけの、現実離れした絵空事を撮る監督では断じてない。巨大な化け物が猛威を振るおうと、魔女の呪いが登場しようと、彼はそこに「もし現実に起きたら、きっとこうなのではないか」という生々しい手触りを執拗に宿してみせる。神話と歴史とを地続きのものとして描き切った、と言ってしまってもいいほどに、確かな現実味をたたえたファンタジー映像に仕上がっているのだ。

しかも、現実味を宿したぶん迫力が削がれてしまうのか——と問われれば、そんなことも断じてない。本作は“現実の世界に、途方もない何かが出現してしまった”としか言いようのない質感を、映像でも音でも隙なく構築している。

史上初となる全編IMAXカメラによる映像、緻密に練り上げられた音響、そしてルドヴィグ・ゴランソンが手がける、抑制の効いた不気味さと浮世離れしたサウンドが絶妙に釣り合う音楽——それらの総合力によって、徹底した現実感のただなかに、最大出力の神話を顕現させてみせたのだ。これぞまさしく“叙事詩スペクタクル”である。

筆者はグランドシネマサンシャインのIMAXレーザーで本作を体験し、その映像と、込められたメッセージの双方に圧倒された。そのうえで断言するが、本作はIMAXで——それも、可能なかぎり迫力を体感できる環境で——ぜひ観ていただきたい作品である。

豪華キャストが神話の人物に

むろん、ノーランのもとに結集した豪華キャストも、その一人ひとりが圧倒的な存在感を放っている。

怒りも恐怖も悲しみも、たった一人で孤独に抱え込んだ果てに一気に爆発させるアン・ハサウェイの緩急。静かながら、確かな実力に裏打ちされた絶対的強者の風格をまといつつ、それでいて絶えず思い悩み続けるマット・デイモンの覇気。若く未熟でありながら、芯の通ったプライドを備えたトム・ホランド。そして、鼻につく小狡さを漂わせながらも、それでも一定の人間を惹きつけずにはおかないロバート・パティンソンの“カリスマ小物”オーラ——。

彼らをはじめ、ジョン・バーンサル、シャーリーズ・セロン、ゼンデイヤ、ルピタ・ニョンゴ、エリオット・ペイジといった錚々たる顔ぶれが、それぞれに見事な存在感を発揮している。

神話の時代から繰り返され、そして今なお世界のどこかで繰り返され続ける、人間同士の争い。それが叙事詩であれ、歌曲であれ、小説であれ、映像作品であれ、そうした悲劇が絶えず綴られてきたことを、我々はとうに知っている。知っていながら、なお、やめない。人間とは、いったい何なのだろう——。『オデュッセイア』は、観る者に改めてそんな問いを突きつけてくる。

その意味を読み解くのも一興であり、正直なところ、読み解こうとせずとも、ただ“身を委ねて浴びる”だけでいい。とにかく本作を、一人でも多くの人に体験してほしい。心からそう願っている。


神話の時代から現代まで、人間はなぜ争いをやめられないのか。『オデュッセイア』は、その答えなき問いを、圧倒的な映像と音響とともに我々の胸に刻みつける。9月11日(金)の日本公開の折には、ぜひIMAXの大画面で、この叙事詩を全身に浴びてほしい。読み解くもよし、ただ身を委ねるもよし——いずれにせよ、忘れがたい体験が待っているはずだ。

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