【映画レビュー『我来たり、我見たり、我勝利せり』】圧倒的格差の前に“胸糞”さえ感じない・・? 特権階級の狂気の倫理観が生み出す“人間狩り”

『我来たり、我見たり、我勝利せり』© 2024 Ulrich Seidl Filmproduktion GmbH REVIEWS
『我来たり、我見たり、我勝利せり』© 2024 Ulrich Seidl Filmproduktion GmbH

「来た、見た、勝った」(veni vidi vici)—ユリウス・カエサルが残したこの簡潔な戦勝報告は、その淡々とした表現の中に勝者の絶対的な優位性と、敗者への冷徹な無関心を内包している。強者が当然のように語る勝利の言葉には、戦いそのものが既に結果の見えた茶番であったかのような感覚が透けて見える。6月6日(金)日本公開となったオーストリア映画『我来たり、我見たり、我勝利せり』はまさにこの古典的な権力者の心理をタイトルに据え、現代の富裕層が見せる人間性の欠如を容赦なく暴き出す。

『我来たり、我見たり、我勝利せり』あらすじ

『我来たり、我見たり、我勝利せり』© 2024 Ulrich Seidl Filmproduktion GmbH

『我来たり、我見たり、我勝利せり』© 2024 Ulrich Seidl Filmproduktion GmbH

起業家として億万長者に成り上がり、幸福で充実した人生を送るマイナート家。一家の長であるアモンは、家族思いで趣味の狩りに情熱を注いでいる。ただ、アモンが狩るのは動物ではない。莫大な富を抱えた一家は“何”だって狩ることが許されるのだ。アモンは“狩り”と称し、何カ月も無差別に人を撃ち殺し続けている。“上級国民”である彼を止められるものはもはや何もない。一方、娘のポーラはそんな父親の傍若無人な姿を目の当たりにしながら、“上級国民”としてのふるまいを着実に身につけている。ある日、ついにポーラは父親と“狩り”に行きたいと言い出す。

特権意識が生む異次元の倫理観

『我来たり、我見たり、我勝利せり』© 2024 Ulrich Seidl Filmproduktion GmbH

『我来たり、我見たり、我勝利せり』© 2024 Ulrich Seidl Filmproduktion GmbH

主人公のアモン・メイナード(ローレンス・ルップ)は、表向きには家族を愛する理想的な父親として振る舞っている。しかし、その豊かな財力こそが彼に絶対的な特権意識を植え付け、一般市民を虫けらのように射殺することを可能にしているのだ。富があるからこそ、彼にとって人の命を奪うことは、肩の埃を払うのと何ら変わらない行為となっている。

『我来たり、我見たり、我勝利せり』© 2024 Ulrich Seidl Filmproduktion GmbH

『我来たり、我見たり、我勝利せり』© 2024 Ulrich Seidl Filmproduktion GmbH

物語を導く語り手として機能するのは、アモンの娘ポーラ(オリヴィア・ゴシュラー)である。彼女のモノローグは、特権階級に生まれ育った者が持つ根深い優越意識を浮き彫りにする。勝利することの当然性、目標を達成できることへの疑いのない確信——これらすべてが富裕層特有の無知と傲慢さから生まれる世界観なのだ。ポーラが淡々と語る残虐行為や他者への蔑視は、まさにカエサルの戦勝報告と同じ温度感を持っている。感情の起伏もなく、罪悪感の欠片もない、ただ事実を述べるかのような冷淡さがそこにはある。

『我来たり、我見たり、我勝利せり』© 2024 Ulrich Seidl Filmproduktion GmbH

『我来たり、我見たり、我勝利せり』© 2024 Ulrich Seidl Filmproduktion GmbH

さらに異様なのは、義母ヴィクトリアの存在だろう。家庭内で日常的に殺人が行われているにも関わらず、彼女の関心事は自分の妊娠の可能性のみである。この倫理観の完全な麻痺こそが、この一家の狂気の深さを物語っている。

“胸糞悪くさえなれない”クリーンな撮影

こうした環境で育ったポーラの歪んだ価値観を、果たして我々は糾弾できるだろうか。彼女の倫理観の欠如は、もはや清々しささえ感じさせるほど徹底している。監督の真に恐ろしい手腕は、罪悪感を微塵も持たない彼らの視点を通して物語を語ることで、観客である我々をいつの間にか彼らの価値観に同調させてしまうことにある。これは極めて危険で巧妙な演出技法と言えるだろう。

『我来たり、我見たり、我勝利せり』© 2024 Ulrich Seidl Filmproduktion GmbH

『我来たり、我見たり、我勝利せり』© 2024 Ulrich Seidl Filmproduktion GmbH

撮影技法もまた、この作品の残酷さを際立たせる重要な要素である。画面は一貫して明るく洗練されており、美しいまでにクリーンな映像が続く。とても人命が奪われている現場には見えない上品さすら漂っている。日常の何気ない一コマを切り取るような流麗なカメラワークの中で、淡々と殺人が行われていく。

『我来たり、我見たり、我勝利せり』© 2024 Ulrich Seidl Filmproduktion GmbH

『我来たり、我見たり、我勝利せり』© 2024 Ulrich Seidl Filmproduktion GmbH

本作は確かに観客に強い不快感を与える内容(のはず)だが、従来の”胸糞映画”とは一線を画している。なぜなら、観客は怒りや嫌悪感すら抱くことを許されないからだ。圧倒的な力の格差を前に、我々は“胸糞悪くさえなれない”無力感に支配されるしかない。これこそが現実の貧富の差が生み出す構造的暴力の本質なのかもしれない。富裕層の視点から描かれるこの洗練された残酷さに、深い戦慄を覚えずにはいられない。

『我来たり、我見たり、我勝利せり』は6月6日(金)より日本公開中。

cula をもっと見る

今すぐ購読し、続きを読んで、すべてのアーカイブにアクセスしましょう。

続きを読む