新作映画『THE END(ジ・エンド)』を紹介&レビュー。
12月12日(金)から公開となった『THE END(ジ・エンド)』は、ドキュメンタリー映画『アクト・オブ・キリング』で知られるジョシュア・オッペンハイマー監督による、黙示録的ミュージカル。地表に住めなくなった時代、地下で暮らす家族の物語だ。環境破壊から25年、塩鉱を改造したシェルターで暮らす夫婦と息子のもとに、ある日少女が現れる。彼女の出現が、閉ざされた日常を揺るがしていく。主演はティルダ・スウィントン、ジョージ・マッケイ、マイケル・シャノン。
『THE END(ジ・エンド)』あらすじ
地表が住めなくなってから25年。元エネルギー王の父、元ダンサーの母、そして息子の三人は、塩鉱を改造した地下シェルターで孤立した暮らしを送っている。ある日、坑道で少女を発見した一家は、彼女をシェルターへ連れ帰る。外の世界を語る少女の存在が、閉ざされた日常と家族の絆に亀裂を生んでいく。
世界が滅んでも変わらない人間の本質
終末世界を舞台にしながら、本作が描くのは家族のコンプレックスや恋愛といった普遍的な家庭ドラマだ。世界が滅んでもなお、人間の本質は何ひとつ変わらない——そんな皮肉が作品全体に通底している。ミュージカルでありながら、華々しく歌い上げる瞬間は訪れない。独特の空気感をまとうキャストたちが、じんわりと染み入るように歌声を紡ぐ挑戦作である。

『THE END(ジ・エンド)』より ©Felix Dickinson courtesy NEON ©courtesy NEON
“歌”で誤魔化す特権階級の自己欺瞞
『ダンサー・イン・ザ・ダーク』や『アネット』のように、本作は煌びやかさとは程遠い、ダークでシニカルなミュージカルだ。ここでの“歌”は、観客を楽しませるためのものではない。
では、なぜあえてミュージカルという華やかなフォーマットを選んだのか。それは、特権階級の罪悪感と自己欺瞞を描くための装置として、“歌”が機能しているからだ。彼らは言葉では語れない感情を、歌で誤魔化すかのようだ。追い詰められた家族は、自らの罪や身勝手を理解しながらも、心の底の真実ではなく、自分たちのウソを必死に歌い続ける。煌びやかに取り繕おうとするその行為こそが、特権階級をシニカルにえぐり出す。

『THE END(ジ・エンド)』より ©Felix Dickinson courtesy NEON ©courtesy NEON
極めて野心的な“問題作”といえるだろう。唐突に途切れるメロディには、大団円など許さないというオッペンハイマー監督の意地悪な意志が宿っている。
唯一無二の存在感、ティルダ・スウィントン
ジョージ・マッケイやマイケル・シャノンも、特権階級にいそうな家族像にぴたりとハマっているが、やはり本作の白眉はティルダ・スウィントンだ。その神秘的なビジュアルと悟りを開いたような視線で、『コンスタンティン』や『ドクター・ストレンジ』では浮世離れした達観者を体現してきた彼女。一方で、一見したイメージとは裏腹にお茶目な人柄も併せ持ち、ポン・ジュノ監督やウェス・アンダーソン監督の作品ではコミカルな魅力をもたらしてきた。

『THE END(ジ・エンド)』より ©Felix Dickinson courtesy NEON ©courtesy NEON
そんな唯一無二の俳優であるスウィントンが、本作でどのような母親像を見せるのか——それこそが最大の見どころといえる。
『THE END(ジ・エンド)』は12月12日(金)から公開中。終末世界で歌い続ける家族の姿から、私たちは何を受け取るのか。オッペンハイマー監督が仕掛けた野心的な問いかけを、劇場で体感してほしい。
